森丘さんは 鹿屋基地から出撃沖縄本島の先 南西諸島沖で 帰らぬ人となった特攻が始まって 半年が過ぎた 1945年 4月このころになると 日本はもはや 他に 打つ手も なくなったのか来る日も 来る日も 特攻隊を 出撃させるように なっていた千さんの部隊にも その日が 近づいていたが実は 特攻には ある根本的な 問題が あったという沖縄戦のころにはおよそ 200km先から 特攻機を 捉えることが できたというさらに 重さ 250kgの 爆弾などを積んだ 特攻機は老朽化した 機体も多くその警戒網を 突破する 飛
戦友を見送り 次は 自分の番だと 覚悟した 千さんしかし…そして 千さんは 戦後先に逝った 仲間との約束を 果たすための 活動を始めた鹿児島県 鹿屋で 行われた 献茶式特攻で 海に散っていった 隊員は92歳の 元 特攻隊員が 階段を 懸命に 上っていく千さんの戦争を 僕は 伝えていきたい命を見送り続けた 少女の 心の記録です私たちに 戦争を 教えてください。
ハワイ真珠湾への 奇襲攻撃から 太平洋戦争が 始まったさらに 真珠湾攻撃に 参加した ゼロ戦パイロットが 証言この地上の楽園で 70年以上前に 日本人が 何をしたのか?それは 1941年 12月8日のことだったハワイの 真珠湾にある アメリカ軍基地を日本軍の戦闘機など およそ 350機が 突如 襲いアメリカの戦艦 4隻を 沈めたわずか 2時間ほどの攻撃で 2,000人以上の 死者を出すなどアメリカに 大打撃を与えた3年8カ月に及ぶ 太平洋戦争の 始まりだそれから 七十数年。
戦後 職業軍人だった 原田さんは公職には 就けなかったという古里 長野に帰っても 世間の目は 冷たく仕事にも 就けなかったやがて 原田さんは 亡くなった 戦友や撃ち落とした パイロットへの 罪滅ぼしのように幼稚園を つくり 人を育てることに 人生を捧げた原田さんは 間もなく 100歳を迎えようとしている自らの 戦争体験を 語れる時間は 限られているエリート パイロットとして それが 国のためだと信じてミャンマー連邦共和国かつて ビルマと呼ばれた この国であまりに 無謀な 軍事作戦が 行われたことを知ってい
そして 僕は 一人の 元 日本兵 土田さんと共に70年前 地獄の戦場と 呼ばれた ペリリュー島に 向かった1944年 9月から 11月まで およそ 2カ月間にわたって日本軍と アメリカ軍が際限のない 殺し合いを 続けた島結果 ここで戦った 日本兵の 96%。
ところが ペリリュー島の戦いが 始まってから およそ ひとつき後マッカーサー大将 率いる アメリカ軍はペリリュー島を 飛び越えて フィリピン レイテ島に 上陸つまり この時点で ペリリュー島を 死守することに戦略的な意義は なくなったのだしかし ペリリュー島では 日米両軍が 目的のないいつ 終わるかも 分からない 殺し合いを 続けていたうわ うわ…。
終戦の 3年後アメリカ陸軍によって 記された 戦争の記録中に こんな記述が あります沖縄本島に 54万もの兵を 率いて 上陸対して 迎え撃つ 日本兵は わずか 10万人その不足を 補うため 老人から 少年まで戦力として かき集められ 最前線に 送られたのですおよそ 3カ月間にわたって 繰り広げられた 絶望的な戦い強く 私の記憶に 残っていたからですそれが この写真です過酷な戦場で まだ 幼い少女が 白い旗を掲げて 歩いていました確かに 写真で見た 少女です当時 少女は 7歳少女が 沖縄を さまよっていた期
母親が 日本人です子供のころ 日米の間で大きな戦争が あったことを 知ってからは様々なことに 葛藤してきました普段の晴羅さんは 大学で 外国語を学びながらけれど 友達との会話の中でも つい…晴羅さんが 友達より 少しだけ 戦争に関心を 持つようになったのには 理由がありますそして もう一つ晴羅さんは アメリカで暮らす 祖父が 書いたという本で衝撃的な事実を 知りました日本への空襲に 参加していたというのです今も アメリカで 行われている 戦争の勝利を記念する イベントそして これが 70年前にジェリーさん
静岡の大空襲で 亡くなった方を 慰霊する観音像と そして もう一つ空襲した際 墜落した B−29それに乗っていた 敵国 アメリカ兵の 慰霊碑です墜落後 まだ 生きていた アメリカ兵は住民に暴行され 亡くなったそうですその痛ましい様子を 見ていられず亡くなった アメリカ兵のために墓碑を建てた 日本人が いました伊藤 福松さんという方でしたおじいさんが 何より 見せたかったのがこの慰霊碑でした誰かと 分かり合えたと 思えたときお互いを 大切な人だと 思えたときジェリーおじいさんの 取って置きの 儀式ですこの
戦争は 終わった後も 悲劇を生む中国語は 今も 堪能ですまず 向かったのは 当時 家族で暮らしていた 団地苦しかった経験を 振り返るために当時を知る人たちを 探しているときでした戦後 70年たっても 残る わだかまり宝田さんは 彼らの言葉を 黙って 聞いていました宝田さんが 暮らしていた 当時の ハルビンは洗練された町で 極東のパリと 呼ばれていました南満州鉄道の 特急あじあは 日本の技術力が象徴するものとして 自慢の列車でした宝田さんの父親は その 南満州鉄道の技師明少年も 何不自由ない生活を 送ってい