スーパーJチャンネルSP 東日本大震災から3年

戻る
【スポンサーリンク】
17:56:52▶

この番組のまとめ

3年前のあの日以降原発からおよそ5km離れたここ、浪江町の請戸小学校にのみ込まれました。 この体育館の正面には祝、修卒業証書授与式の大きな看板。 ステージ上には校旗が掲げられ今日は「ANNスーパーJチャンネル報道特別番組「被災地3年後の姿」をここ、福島県、岩手県宮城県を結んで3時間にわたってお伝えしてまいります。 宮城県南三陸町には八木麻紗子キャスターがいます。 ここ浪江町の一部も避難指示解除準備区域となって日中の立ち入りが可能となりました。

國玉さんは動けなくなっていた児童たちそして職員、地元住民の合わせて100人以上を荷台に乗せ避難場所となっている町役場へと送り届けたのでした。 浪江町立請戸小学校。 海のすぐそばの学校ということで船の形を模した体育館や、ヨットの帆をイメージした展望台などところどころに海にかかわるデザインが施されげた箱が並べられていました。 この場所で全校児童、教職員がみんなで集まって一緒に給食を食べていました。

まずはここ岩手県陸前高田市です。 ここ、陸前高田には震災前2万4246人の方々の生活がありました。 奇跡の一本松松は、そう名付けられ震災から2年半を経た去年7月に保存作業が完了しました。 このベルトコンベヤーを使ったかさ上げ工事が終わるまでは、住宅さえも建てられないこの土地で復興を願いながら一本松は立ち続けています。 陸前高田市で今も仮設住宅での暮らしを余儀なくされている方はおよそ5000人です。

上空から見た気仙沼もどこからが海でどこからが陸なのかその区別もつかないほどの状態でした。 震災直後の気仙沼湾上空の映像をご覧いただいております。 そしてこちらが現在の気仙沼湾上空です。 急ピッチで進められているのが巨大な防潮堤の工事です。 上空から見た3年後今、ご覧いただいたんですが大谷さん、今、気仙沼は雪が積もっていましたね。 特に、防潮堤の問題はゆっくり議論してどれぐらいの高さがいいのか本当に必要なのかということも初めに計画ありきじゃなくて改めて議論する必要があると私は思います。

しかし、今なお原発事故の影響で沿岸での操業自粛が続く福島県では水揚げ量が震災前のおよそ35%にも満たない状況が続いています。 人気ドラマの舞台となった岩手県では去年4月から6月の3か月で県外から訪れた観光客が使った金額は151億2500万円と震災前の同時期のおよそ73%まで盛り返してはいるものの同時期の宮城県では震災前のおよそ67%。 警察庁によりますとこの震災で亡くなられた方ですが去年11月陸前高田市で行われた一斉捜索で新たに見つかったのは子ども用のリュックサックでした。

宮城県南三陸町には八木キャスターがいます。 南三陸町の防災対策庁舎前です。 庁舎は3階建てで同じ敷地には南三陸町の町役場がありました。 壊滅状態といっても過言ではないほど大きな被害を受けたこの町ではそして、こちらが海側から見た南三陸町の震災から3年後の姿です。 現在、ご覧いただいている映像はマルチコプターという特殊なラジコンを使って撮影しています。 高さおよそ15mの防災対策庁舎の屋上ではエンドウ・ミキさんたちの遺志と津波の恐ろしさを後世へと伝えていくためにこの庁舎を残すべきという声は今も根強くあります。

宮城県気仙沼市の向洋高校。 その日、生徒を避難させたあと学校に残った先生たちが4階建ての校舎の屋上から、津波が迫るのを見ていました。 泥だらけのランドセルや水飲み場の蛇口が岩手県釜石市。 精密な計測に基づき再現された岩手県大槌町の町役場。 現実の大槌町町役場の建物です。 地震でできた天然ダムに沈んだ家が震災遺構として残されています。 震災後、初めて間近で見る防災対策庁舎。 津波の甚大な被害を受けた岩手県宮古市の田老地区。

なかなか町づくりが進んでいない中で震災遺構を残すのか残さないのかという議論を田老町って津波防災の設備が整っていた町で逃げる時間も40分も今回はあったにもかかわらず多くの方が亡くなっています。 それは、津波のそのためにも、震災遺構が恐ろしい津波の強さとかこの震災遺構について1つの答えを見つけるのはすごく難しいと思いました。 現在、ご覧いただいているのは南浜中央病院です。 南浜中央病院ですが完全に孤立しています。 現在ヘリコプターは宮城県の空を更に南下し、岩沼市にある南浜中央病院の上空に来ています。

これは、被災3県で最も早い集団移転でした。 3年目の今集団移転を目指すのは被災3県で300地区以上。 個々、南三陸町では特に町の中心部で高台への集団移転の遅れが目立ち始めています。 ここは、岩沼市で被災した6つの地区の集団移転先です。 努めた市は特に被害が大きかった6地区を集団移転することを決定。 住民と行政の協力によってどこよりも早く集団移転を進めてきた岩沼市ですら順風満帆とはいえないんです。

逆に震災遺構であればご遺族の気持ちがそれぞれあるんですね。 再び福島県浪江から今度はお伝えしていこうと思うんですがこの浪江の町は帰還困難区域それから居住制限区域避難指示解除準備区域この3つに再編されています。 私たちは町の許可を得まして請戸小学校から中継させていただいてるんですがこの小学校から4km西国道6号の内側ということになるんですが浪江駅前から中継です。 この場所は震災後警戒区域となり1階部分はつぶれ原形をとどめていません。

しかし沿岸部の請戸地区に向かった配達員は、新聞を配るべき多くの家が津波で消えてしまった現実を目の当たりにし一部も配ることができずに帰ってきたといいます。 原発事故はおよそ40km離れました飯舘村でもなお、大きな影響を与え続けています。 全員、避難した村の住民の方々には事故から4年後以降子どもたちの甲状腺がんが急増したチェルノブイリの恐怖が現実として迫ってきています。 あの日、大量の放射性物質がたまたま吹いた北西への風に乗り40km先の飯舘村に降り注いだ。

この東日本大震災が神戸の震災と大きく違うのは放射性物質の問題なわけです。 これが東日本大震災の現実だと思うんですけど。 一番違うのは原発事故というのは時がたち、日がたつと不安がどんどん増大していく。 原発事故の直後によく、当時の政権の官房長官の発表で直ちに健康に影響はないと思われるとこういうことをずっと聞かされてきましたよね。 この福島第1原発、すべての元凶になっているんですがここでは廃炉に向けてヘリは宮城県を南下。 私の眼下には今福島第1原発が広がっています。

この30年から40年廃炉には時間がかかるといわれているわけですけども本当に、過酷な実態というのが廃炉作業がようやく動き出した東京電力福島第1原発。 土木作業員として20年ほどのキャリアを持つ彼らでさえ、困難を伴う。 作業員には被ばく量の限度がある。 一方、東京電力の発表によると熟練作業員の代わりにやってきたのは素人ばかり。 先月の超高濃度の汚染水漏れも原因は人為的なものだった。 その現場周辺で働く作業員。 事故から3年がたった福島第1原発。 そういうベテランの作業員がどんどん足りなくなってきていると。

東北の漁業と農業が3年たってこれから3年で私たちができることは、被災地以外で一人ひとりが少しずつ考えるだけで被災地のためになることができるのではないか。 福島の今、抱えている問題はむしろ、福島以外被災地以外で大谷さんの話と同じですがそういう人たちが今日の特番を終えればと思います。 宮城県南三陸町の名物といえばキラキラ丼。 岩手県沿岸を走る三陸鉄道の冬の名物こたつ列車。

どうされます?これは、今町とか県としては全壊と半壊の場合は環境省で壊してくださるようになるみたいですが今はまだ出ていないんですね。 いくら、インフラが整備された除染されたっていっても当分は原発と放射能がまだ収束していませんので住めません。 宮城県南三陸町の志津川地区にある仮設住宅です。 この住宅にお住まいの遠藤正三さんです。 日々移り変わる被災地の様子を定点カメラが追い続けました。 去年6月、避難を続ける人々が心待ちにしていた消防団のパトロールが復活した。