歌舞伎だけでなくて映画でもそれからテレビでも他の舞台でももう…。 歌舞伎っていうのは昼間の部は11時から?はい。 あっこれ歌舞伎座の中?これは違いますね。 これはえーとねシスティーナ…システィーナ歌舞伎と申しましてですね四国の徳島にあります大塚国際美術館で僕今毎年2月にやらせていただいてるんですけどもコラボ歌舞伎を作ると…。 歌舞伎もすごく長いのができました…。 えー!僕時間があるから早変わりで走るついでに自分のカレンダーが売ってるからちょっと宣伝しとこうと思って携帯持ってきてですね。
そうですねたくさんコメントっていうのを…。 コメント欄っていうのがございまして皆様からの…本当に直接コメントがいただけるのですごくなんかこう…。 僕そんな友達いないんですけど友達が増えたような気分になりますし色んな皆様の意見新鮮な意見っていうのが聞けますので。 それとやっぱりみんなが歌舞伎に関心持ってくださってるっていうことがわかるでしょ?それはだんだんね。
そういうのを全部ご覧になって今のお養父様があなたに歌舞伎俳優にならないかってお勧めくださって…。 養父のひと声がなかったら僕今歌舞伎役者をやってない…やれてないっていうか辞める寸前だったんですね。 ですから歌舞伎に入る前普通の子役で歌舞伎にも出させていただいておりまして何でしょう…大人の言葉で言うとカルチャーショックですね。 そして歌舞伎に入るということで南座昭和56年の12月の京都の顔見世で。
「大きい病院行ってください」って言われてがんだっていうことがわかりましてもう本当に…。 何にもお母様その前具合悪いとか仰らなかったの?ひと言も言いませんでしたね。 それから結局色んな治療法をしたら4年間…。 まああの…いわゆる僕も養子に入れていただいた身ですから病気のこととか家族のこととかで迷惑をかけちゃいけないって常々母にうちの父は…実家の父は言ってたんですよね。
そのまま倒れて意識不明になりちょうど2週間後ぐらいですかね亡くなったのは。 あの…おやじが最初事故だって聞いたんです妹から連絡入って。 「事故で大丈夫やったらもう東京行くよ」って。 走ってる最中に電話があって「どうした?骨折とか何?」って聞いたら「意識不明」って言うから「えっちょっと待って戻るわ」って言って戻ったんですよ。 その頃までね僕両親が生きてる間主役っていうのをやったことなかったんですよ。
今違うお養父様がいらっしゃいますけども本当によかったと思います。 あなたはとにかく歌舞伎をこのままとにかく続けていかなくちゃいけないっていうお気持ちがおありだし色んな歌舞伎の昔のことも大事にしなきゃいけないということで兵庫県の豊岡市にある…。 近畿圏内で最古の芝居小屋といわれておりまして私も…。 出石永楽館っていうんですか?そうなんです。 んっ?城崎温泉近い。 そして歌舞伎という。 5月はあれでしょ?今もう出てらっしゃるんですが花形歌舞伎ね。 6役早変わりですね。