スーパーJチャンネルスペシャル 終戦70年特別企画 いま、言い伝えるべきこと

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この番組のまとめ

私たちには決して忘れる事のない記憶がある病人等が発生した模様である」♪~「第18回オリンピック」「日の丸を先頭に371人の日本選手団が姿を見せた」「聖火は今東洋の一角で激しく燃え上がった」この国が抱え込んできたさまざまな問題その原点は70年前のあの戦争にあるアメリカ軍の極秘資料から浮かび上がるゼロ戦の悲劇とは4000人もの若者が命を散らした特別攻撃隊戦場に届けられた笑いしかし戦争を身をもって知る人々は年々数少なくなっています。

それぞれを一緒に飛行させ速度上昇力運動性防御そう謙虚に結論付けた一方したたかに弱点を記述しています。 ゼロ戦の弱点を知り抜いた米軍はこの作戦に徹し高い馬力を持つ戦闘機を次々と戦場に送り込んだのでした。 この頃にはベテランパイロットを多く失い未熟な若手が援護の少ない状態で敵の新鋭機と戦わざるを得ない状況でした。 米軍機に撃墜され瀕死の重傷からその後なんとか日本に帰還する事が出来た原田さん。

第一次わらわし隊は各地で兵隊たちの士気を上げ名横綱双葉山も戦地を回ったといいます兵隊たちを鼓舞した笑いその力を利用したのが軍部でした笑いが生み出す高揚感を利用する一方検閲という形で情報をコントロール軍は飴と鞭で笑いをいわば戦争の道具に仕立てたのです当時検閲を受けた演劇台本至るところに赤線が引かれ脇には大きく「削除」の文字が強い圧力をかけたのです吉本興業でも…検閲を受けた漫才は国策漫才といわれましたそれはどのようなものだったのでしょう台本を基に再現した漫才を10代から70代の30人の方に見てもらいましたそし

愛子さんは夫桂金吾さんと夫婦漫才で活躍していました2人は昭和16年中国への演芸慰問に参加靖国神社に唯一残っていた母が舞台に立つ写真を見てもらいましたわずか10歳で断ち切られた母の記憶しかし当時の新聞はこう報じていましたこの事が大きな反響を呼びました戦争に翻弄された笑い送ったのは岩本益臣大尉。 母親の和子さんが岩本大尉に嫁ぐ時1年先に結婚記念日をお祝い出来るかわからない戦時下で2人は毎月20日を結婚記念日とする事にしましたマレーやスマトラにも出撃した航空機操縦のエキスパートでした。

佐々木伍長は子どもの時自宅の上を飛ぶ飛行機を屋根の上から眺め飛行機に憧れました。 「我が特別攻撃隊万朶飛行隊はこのニュースをラジオが報じているさなか鉾田の和子さんのもとへ荷物が届きました2回目の出撃直前参謀長は佐々木伍長を呼びました。 佐々木伍長の出身校弁華別国民学校をはじめ地元の学校では生徒を連ねて伍長の生家にお参りにいきました。 3度目の出撃命令が出された佐々木伍長は飛行場本部に呼ばれました。 佐々木伍長にはその後も出撃命令が相次ぎました。 12月下旬佐々木伍長はマラリアを発症。