お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺 3時間スペシャル

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この番組のまとめ

今年で父三波伸介が亡くなった歳になる息子がこの夏に心機一転自宅に眠る遺品を初めて整理すると…。 三波伸介の人生を彩るこれを見れば夏休みが楽しくなる事間違いなし!まずは…。 1960年代初頭伊東四朗戸塚睦夫の3人で結成したてんぷくトリオで一躍人気者に。 大量に残された数々の遺品はどうやって整理すればいいのでしょうか?さらに遺品から明らかになる昭和の喜劇王三波伸介と大物有名人とのお笑いの人がこういうゴールデンで司会やるっていうのの一番最初の人…。

これまで父の偉大さに多くのプレッシャーを感じる事があったそうですがここで心機一転!そこには昭和の芸能界で大活躍した三波伸介さんならではの遺品がたくさんありました。 他にも昭和の大スター三波伸介さんが生前愛用していた物がずらり。 三波伸介さんはねもうあの…僕は…。 林さんはどうですか?三波伸介さんの事は。 なのでもう三波伸介さんがいらっしゃらなかったら私はもう…。 さらに『紅白』にも出場したずうとるびがデビューするきっかけとなったのは三波さんが12年間司会を務めた『笑点』でした。

当時三波さんは浅草の演芸場で11歳下の萩本さんの事をかわいい後輩として目をかけていたそうです。 一体どんな言葉を交わしたのでしょう?さらに三波伸介さんが弟のようにかわいがっていたという萩本欽一さん。 気遣って頂いてって言ったらでも俺そういえば三波さんの体調気遣うの忘れたなって言ってたらうちの親父が死んじゃって。 昭和の喜劇王三波伸介さん。 昔は舞台で二枚目をやっていらしたんですけれど三波伸介さんです。 ただ今ご紹介にあずかりました三波伸介です。

車で走ってるでしょ?車乗せてもらえて嬉しいなと思ったら高速道路走ってて看板があるじゃないですか高速道路沿いの。 とにかく笑いにストイックだったという三波さんと萩本さん。 でその時にうちの親父が遊びに来るって言ったらコント作家のはかま満緒先生が三波ちゃん遊びに来るから欽坊脅かせって言って。 そんな笑いへのこだわりは客席から始まる『笑点』のオープニングにも三波伸介さんならではの思いが隠されていたそうです。 人の紹介をするんでもやっぱり三波伸介流を編み出そう編み出そうとしてたんじゃないかな。

最近ではサイズが合わない遺品はリメイクをして遺族や故人と親しかった人が再利用するケースが増えているそうです。 続いての遺品は三波伸介さんの代名詞ともいえる自作の絵。 こちらが当時爆発的な人気を誇った『お笑いオンステージ』の中のワンコーナー「減点ファミリー」。

でもずっと1時間喋ったら黒澤監督がコーヒーを置いて三波君…。 ここを埋めてくれってどうすりゃいいんですかね?三波さんその時何やったんですか?ただなんか演技論を喋ってそれで黒澤先生が映画の時はねこういう演技もまたあるんだよっていう…。 なぜ高校合格記念に仁王像を描いたんでしょうか?それこそお寺にまず入る入り口にいらっしゃる方ですからまさに入門的なね気持ちを切り替えるためのものだったかもしれませんし…。

ここまで三波伸介さんの仕事道具そして衣服絵など貴重なものを整理してきた息子伸介さんですが…。 そこから父三波伸介の顔を垣間見る事が出来ました。 ちなみに先ほど写真にも出てきた妻和子さんが原因である大物スターとライバル関係になったっていう話はご存じですか?それが国民的映画俳優渥美清さんなんですね。 同じ時代に生きた演芸界の二大スターでありお互い意識し合う事で渥美清さんとねうちの親父がちょいとライバル心が強くて。

現在二代目三波伸介としてそれはありますよね。 「初代」生きてる時に「初代喜劇我命三波伸介」って彫ってきてこれが家に届いた時に…。 私たち三波伸介さんいらっしゃらなかったらこの芸能界にはいなかったのでホントに…。 そして今二代目伸介さんにもこんなに愛情を込めて子育てをしてらっしゃったっていうのを今回初めて私知ったので…。 昭和の爆笑王初代林家三平さんと仲がよかった三波伸介さん。 さらに今行きたい上野スペシャル寛永寺上野東照宮。

六代目円楽さんは若い頃に三波伸介さんの笑いに対するひたむきさを学んだそうです。 一行がやって来たのが東京中野のにある三波家の菩提寺明治寺。 こちらの寺に二代目伸介さんが最も整理したいというものを父の死後程なくして預けて以来30年以上もこちらの寺に置かれているそうです。 あのビックリ箱はですねやっぱりお顔がありましたので人形供養という事で…。 人形供養。 この人形供養を行いましたのは埼玉県本庄市にありますこの広徳寺さんというお寺さんです。

近代建築の巨匠ル・コルビュジエが造り上げた国立西洋美術館。 ただやっぱり皆さんに知れるようになったのは江戸時代寛永寺というお寺が…。 今回は歴史好きの高橋英樹さんと寛永寺に行くのは初めてという嶋政宏さんが上野公園と寛永寺を巡ります。 寛永寺があるのは上野公園の北の端鶯谷駅の近く。 上野公園の賑わいから少し離れた落ち着いた場所。 江戸時代の最盛期には上野公園全てが境内地だったほど江戸で最大の寺でした。 しかし明治になると境内のほとんどが上野公園に生まれ変わり…。

上野東照宮があるのはご存じ上野動物園のお隣。 東照宮といえばもちろん日光東照宮が有名ですが…。 ここ上野にも家康をまつる東照宮が。 今回は上野東照宮の嵯峨さんに案内して頂きました。 家康のために奉納されたおよそ200の灯籠を抜けると目指す東照宮の絢爛豪華な建物が見えてきます。 家康をまつるために建てられた上野東照宮。 徳川家康のある教えが元になっているそうですが一体どんな教えなんでしょうか?天下人家康ならでは。 そしてこのあと黄金の東照宮内部へ。

ここで歴史研究家本郷先生から関ヶ原の戦いや大坂の陣でも活躍した天下人ゆえの孤独を感じると言います。 こちらが寛永寺のお堂で最も古い京都清水寺を模して造られた清水観音堂です。 江戸時代までは政治文化の中心は京都でしたから江戸の庶民は京の都に憧れを抱いていたそうです。 そこで天海は上野寛永寺に江戸庶民が喜ぶ京の町をつくろうと計画したのです。 実はこれ江戸庶民が松を月に見立てて枝を曲げたその名も月の松なんです。 そうこれが上野で今話題の上野大仏。

では一体なぜ寛永寺で謹慎する事になったのでしょうか?江戸幕府が朝廷に政権を返還する大政奉還を決断した慶喜。 しかしその後まもなく新政府軍と慶喜率いる旧幕府軍が鳥羽伏見で対決し結果は旧幕府軍の惨敗に終わりました。 謹慎ってなんかいけない事をして…?こちらが新政府軍に命を狙われた慶喜が2カ月間身を隠したという葵の間。 江戸無血開城が行われたその日慶喜は謹慎を解き水戸へ戻りました。 明治新政府樹立後徳川慶喜は趣味に没頭しちなみに書の達人だった慶喜ですが実はあの日本橋という文字を書いたといわれています。

スタジオの尾野さんわかりますか?「あのフルーツですかね?」「ねえなんだろう?あれ」「なんですか?フルーツ」「フルーツ…」「フル…え?フルーツ屋えっ?フルーツ屋さん?」「フルーツ棒」カットフルーツ屋さんが当時から…。 当時からカットフルーツなんて言われていたかどうかはわかりませんがこんな感じでフルーツが売られていたなんて知らなかったですねえ。 今でもカットフルーツはアメ横の人気商品なんだそうです。 お坊さんがすごいというポイントが歴代将軍の特殊な埋葬方法。 そんな歴代将軍の墓があるのは上野公園の一番北。