スーパーJチャンネルスペシャル 映像が語る“あのとき” 6年後の証言

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この番組のまとめ

大川小学校の悲劇と言われ巨大津波の爪痕を色濃く残す校舎には6年がたった今もよろしくお願いします。 一方で、東日本大震災では多くの住民やカメラマンが津波の映像を撮影し膨大な映像を残しました。 これからご覧いただく映像には東日本大震災の津波などの記録が含まれています。 日本一とも言われた高さ10mの巨大防潮堤をはるかに越えて津波は穏やかだった港町に襲ってきました。 あそこ、川なんです!この映像が撮られた釜石市の鵜住居地区。 この町の玄関口近くで東日本放送気仙沼支局の千葉顕一カメラマンは津波を目撃しました。

押し寄せた津波が町並みを破壊し始め庁舎にいた人は屋上に身を寄せます。 震災の翌日、庁舎で生き残った10人が避難した高台の小学校。 福島県内では原発事故によって今もなお、ふるさとに戻れない日々が続いています。 ここまで岩手、宮城、福島で起こった巨大津波による記録をご覧いただきました。 校庭ではこのようなラジオが置かれて大津波警報が流れている発令中の避難を呼びかける放送が行われていました。 また、町の防災行政無線でも大津波警報が流され避難を呼びかけていました。

今は平坦な土地に見えますが当時、この辺りには住宅などが立ち並び真っすぐに三角地帯を目指すことはできませんでした。 画面上にある学校から下にあります三角地帯を目指す子どもたちは狭い通路から学校脇の道へ出て交流会館の裏手の路地から県道に出て進もうとしていました。 大川小学校に津波が到達したのは午後3時37分ごろとされ校舎内の複数の時計がその前後の時刻で停止していました。 なぜ、あの三角地帯へ向かってしまったのか。 私は高台というイメージを当初、持っていたんですが三角地帯というのは堤防の、土手の上ですよね。

日和山のふもとに石巻市立門脇小学校がありました。 地震のあと瞬時の判断によって学校にいた児童およそ230人全員が当時、校舎の中には児童たちが避難したあとも残っていた教員そして集まってきた住民40人以上がいました。 吉岡さん、門脇小学校そして、大川小学校。 2つの小学校のケースを今日はお伝えしてきているのですが大川小学校の周りには遺族の皆さんそして、関係者の皆さんが続々と集まってきています。

遺族の方のお話も伺いましたが私、この大川小学校に関して言うと津波てんでんこといいますよね。 そして、一緒に逃げましょうということをやっているうちに大川小学校のこの場では逃げ遅れてしまった。 明治三陸、そして昭和三陸の津波と考えますとこの150年ぐらいの間にチリ津波も含めるとこの震災も含めて4度、この太平洋沿岸は津波に襲われているわけですよね。 巨大な地震と、それに伴う津波が東北地方太平洋沿岸部を中心とした東日本の広範な地域を襲いました。

しかし、その一方では被災地、また避難先の地で困難な生活を強いられている人々が今なお多くいます。 困難な状況にある人々誰もが取り残されることなく多くの車が津波にのみ込まれたことは皆さん、ご存じのとおりです。 しかも、そのあとも大地震が起きる度にこれからご覧いただく映像には東日本大震災の津波などの記録が含まれています。 太平洋沿岸の広い範囲に津波警報・注意報が発表された。 東日本大震災では被災各地で渋滞が起き車列ごと流されたケースが多数確認されている。

そして、宮城県石巻市旧門脇小学校の校舎の一部も震災遺構として保存されることが決まっています。 道路が整備され復興住宅への入居が始まり震災から前に進む石巻市の沿岸部で多くの人の命が助かった経験を50年、100年先にも語り継ぐためにも石巻市は校舎の一部保存を決定したんです。 まずは岩手県陸前高田市からです。 そして、私の後ろに見えるのが中心市街地の核として建設中の大型商業複合施設アバッセたかたです。 宮城県南三陸町のさんさん商店街です。