池上彰の戦争を考えるSP第4弾~戦争をどう伝えたのか?〜

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テーマは戦争はどう伝えられ人々はどう感じたのか?ミカヤマモト。 今回は戦争報道について考えます。 詳しくはのちほど見ていくということでですね私は先日アメリカワシントンに行きまして戦争報道を考えるある場所を訪ねました。 アメリカ議会の近くにニュースの博物館ニュージアムがあるニュージアムニュースのミュージアムつまりニュースとジャーナリズムの博物館なんですね。

70年前の日本は…アメリカに憧れちゃいかん。 ラジオや新聞以外にもこれに呼応する我が上陸部隊はたちまちタンヂョンマリムを抜きクアラルムプールの要害に突入。 敵国アメリカ映画謀略展が行われていますね。 これ何のための展示なんですか?つまりアメリカとの戦争が始まる前はでも敵になったんだからアメリカに憧れちゃいかん!心の中に米がまだ潜んでいたらそれを撃て!というわけです。 これは?「新日本民一億の総進軍」とありますが実は…。

ドイツがポーランドを奇襲攻撃したことに対してイギリスフランスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まる。 実は当時の日本はですねアメリカから石油を買って戦艦や空母や戦車を動かしていた。 じゃあその前に石油を確保しようとしてそれをやらなかったらタダではおかないぞとアメリカから言われたことによってついに日本は真珠湾攻撃に踏み切ると。 太平洋戦争の始まりハワイ真珠湾攻撃。 太平洋戦争の始まり真珠湾攻撃とはどんな攻撃だったのか。

この真珠湾攻撃を指導したのは…攻撃部隊が飛び立ったハワイオアフ島は日曜日の朝。 平和な朝に第一次攻撃隊が押し寄せた攻撃が始まるこれは沈没寸前のアメリカ国民の戦意は一気に高揚。 真珠湾攻撃で撃破された戦艦アリゾナは今も海に沈んだままださあここが真珠湾ですよね。 72年前800キロ爆弾が命中したアリゾナは火薬庫が爆発し船は真っ二つに割れて沈没した日本人的にはちょっと信じられないんだけど72年前戦艦アリゾナは真っ二つに割れて沈没したアリゾナメモリアル。

ハワイ報知新聞はアメリカに忠誠を誓い冷静を保ちアメリカ軍に服従するようにと日系人に訴え続けた日本の奇襲攻撃を受けた真珠湾。 アメリカ海軍最後の戦艦ミズーリ降伏文書調印のため東京湾に入った日本政府団代表の重光葵は9月2日マッカーサー元帥率いる連合国軍と重光全権率いる日本政府代表との間で行われた調印式。

日本人部隊は勇猛果敢な部隊とその名をとどろかせたアメリカ軍の評価を決定づけた戦いがある1944年イタリアローマの南東に位置するカッシーノでワ~オ。 戦争中に日系アメリカ人が大勢隔離されたというような歴史は有名ですしだまし討ちしてなんて卑怯だというイメージがアメリカ人に付いてるんですけど。 戦争当時朝日新聞の社員向けの『朝日社報』というのにはですねこんな文章が掲載されています。 当時戦争中我が朝日新聞はどんな報道をしていたのかというのを現代の視点からこれを検証したというわけですね。

「被害は比較的僅少なる見込」。 あの原爆の被害を被害は比較的僅少。 国民に伝えられたキャンペーン報道とは例えばこんなものがありました。 新聞が実はキャンペーンを張ってると。 松坂屋の広告です。 松坂屋の広告が入るはずだったわけですが戦争が始まったからたぶんこの中身を差し替えたんじゃないでしょうかね。 それは軍からの働きかけってことですか?軍ではなくて軍を支持する一般の読者…国民があの新聞けしからんというわけですね。 となると新聞社もね株式会社ですからやっていけなくなるわけですから。

日本軍は東京で初めて大規模な防空演習を実施各新聞がこの大演習を賞賛するなか桐生悠々は「関東防空大演習を嗤う」という記事を書いた彼はいったい何を書いたのかつまり首都歳をとって退役した人たちでつまり社を辞めざるを得なかったということなんですね。 1933年ここの新聞の主筆だった桐生悠々は「関東防空大演習を嗤ふ」という社説を発表してるんですね。

アメリカ軍は撤退を余儀なくされるこの戦争で取材陣は同行が認められ軍用ヘリで移動することができたベトナム戦争のときにはほんとにアメリカの記者が自由にアメリカ軍がどこでも連れてきましたもんね。 最初はやっぱり戦場の様子をテレビはアメリカに伝えた記者たちが自由な報道を行ったベトナム戦争ベトナム人の少女が銃を突きつけられている自分の意見やコメントを言わないですよね。 ところがベトナム戦争のときには帰国後スタジオで発した言葉は国民に衝撃を与えた5週間後ジョンソン大統領は北ベトナムへの爆撃の停止を表明。