新春時代劇「信長燃ゆ」【東山紀之×織田信長 本能寺の変の真相が明らかに!】

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この番組のまとめ

あの天下一の智将であられた織田信長様がなぜ名も捨て世も捨てた身。 天下平定へいよいよあと一歩と迫った信長様のお姿は京にありましたそのほうらの費用も不足とあらばいかようにも手当ていたす。 このお方五摂家筆頭近衛家の当主前久様こそ永禄二年信長様は将軍足利義輝殿に拝謁されました。 その折に出会われたのが近衛前久様でした前久様は武術にも馬術にもたけておられる。

されど何故信長殿は内裏近くで馬揃えなど行うのです。 天下平定を目前に織田軍を天覧に供しお子が産めればそれで。 上様勧修寺晴豊殿が前久様よりの伝言を持って参られました。 天下平定も目前と相成った。 天下平定まではあと五六年。 天下平定が余のなすべきすべてか。 イスパニアがこのアメリカを発見したのでござるか。 そのイスパニアはポルトガルも制したそうじゃ。 上様が楽市楽座を設け関所を撤廃され年貢を平等にされたおかげで皆豊かになりものの理にも明るくなり申した。

朝廷としては破格の御使者でありましたここに帝よりの左大臣推任の勅をして信長殿の御返答は。 正親町天皇の御譲位と誠仁親王の御即位を計らったのちにしかるべき官職に就かせていただくとそのような返答をしたよしにございます。 帝の御譲位のあとに誠仁親王が即位される。 また来年早々にも左大臣が空位となりますので朝廷は上様の御意向を占いごときで覆すお考えか。 信長様戦場で全軍の先頭をきって馬を駆けるときにはどのような心地がするものでしょうか。

されどお方様のおかげで信長は帝の御譲位を先延ばしされたのでござります。 金神を理由に先延ばしした前久もさすがじゃがそれを信長にのませた晴子も大したものじゃ。 信長様は信雄殿の率いる五万の軍勢で伊賀征伐に乗り出されましたおしのおしのしっかりせよ。 今天下を平定する胆力と才覚をお持ちなのは父上公家のなかでただ一人上様の軍に加わっていることをなぜ誉れと思わぬのですか。 すると経家から己の命と引きかえに翌日信長様は安土に戻ろうとなさいました。

一月三日近衛の前久様と信基様が年賀の祝いを述べに訪れになりました。 信長様はお二人を新築した清涼殿に信基そちが内大臣として帝の移徒を取り仕切るがいい。 そのような大事を帝を差し置いて信長様が決めてよいのですか。 百姓出のこの秀吉近衛太閤様からじきじきにお言葉をいただき我が誉れにございます。 かつ朝家を代表される近衛様も織田の一員としてお働きになっておられる。 伊勢神宮の遷宮の制を御譲位の前に復したいとお望みでござる。 式年遷宮は大嘗会と並ぶ朝廷の重要な儀式。 前久譲位の先延ばしは許さぬ。

信長様は御一門や重臣の方々を集めて出陣の下知を出されました甲斐信濃への出陣は以下のとおりでございます。 信玄坊主の遺徳もいまだ生きておろう。 臣は明後日信長とともに出陣いたします。 織田軍の勢いにのまれ新府城を捨てた武田勝頼様は敗走に継ぐ敗走でわずかな手の者と死を目前にしておられました皆の者見よ。 とうとう信玄坊主の領地が我がものとなったわ。 信玄坊主も勝頼も都へのぼるが宿願であったはず。 信長様はな年貢を平等に取るそうじゃ。

信長殿恵林寺が信忠軍に包囲されすべては総大将信忠に任せてある。 その理信長には通用いたしませぬ。 そなた僧侶を殺し仏の道をないがしろにする信長の走狗と成り下がったか。 信長は極悪非道。 信長様に対して前久様が殺意を持たれたのはこのときが初めてだったのではないでしょうか。 信長様晴子にはどうしても確かめたきことがあります。 信長のもとに晴子が来た。 信長は晴子を富士に誘ったぞ。 ついては政を離れて信長と気心の知れた者が朝家にあれば万一の際両者のいさかいを止める手立てともなりましょう。

余は次の帝となられる誠仁親王の後見人の立場となる。 さすれば誠仁親王に終生仕えるのがしきたりであろう。 勅使殿ならばこの信長喜んで恩賞を受けよう。 ならぬなら誠仁親王に名代としてお越しいただきたい。 五の宮は余の養子であるゆえ近衛様信長を誅するとは。 足利幕府を再興するとふれて旧幕府勢力を結集する。 幕府再興を大義名分とすれば細川藤孝や明智の賛同も得やすい。 上様誠仁親王を安土にお招きして王朝を立てられるというのはまことでござりまするか。

それに従い毛利征伐に出るのは信長は朝廷の敵じゃ。 勅使殿近衛殿も親王様もあれほど強く宣下の前の御譲位に反対しておられたのに急なお心変わりはなぜでござる。 信長様は武田を滅ぼし朝家の方々もその意見に従ったとか。 「人間五十年」「滅せぬもののあるべきか」わしは朝敵信長を討つ。 足利幕府の再興を阻むつもりはございませぬが我が軍は天下布武を夢みて戦ってまいりました。 将軍宣下を賜ったらその足で毛利征伐じゃ。 こうして本能寺に向かう信長様の手勢は百五十とあいなったのでございます。