日曜ビッグ 戦争を考えるSP第8弾 池上彰の教科書に載っていない20世紀

戻る
【スポンサーリンク】
19:55:07▶

この番組のまとめ

生前退位の意向を示されている天皇陛下は明日の午後3時にお気持ちをビデオメッセージのかたちで表されます。 生前に天皇の位を皇太子様に譲る生前退位は皇室典範に規定がなく法改正などが必要になります。 太平洋戦争に負けた直後なんですね。 さあここにその太平洋戦争直後の街の様子をちょっと再現してみましたが。 戦後ニッポンを創った2人に占領期の6年間マッカーサーと昭和天皇は何を残したのか?まずはこちらですねはい。

その後当時アメリカ領だったフィリピンへ。 このときマッカーサーはフィリピンにいたんですが何をしたのかといいますと…。 アメリカ極東陸軍司令官としてフィリピンの防衛にあたっていたマッカーサー。 太平洋戦争が始まると日本軍がフィリピンを制圧します。 マッカーサーはフィリピンを脱出しオーストラリアへ。 マッカーサーが来日した日の一部始終を捉えた映像をアメリカで発見。 世界最大の公文書館アメリカのナショナルアーカイブスにやってきました。

こちらの映像マッカーサーが日本に降り立った日の厚木飛行場の様子です。 マッカーサー自ら先頭に立って日本に乗り込んできたというイメージがあるんですが実は数日前から先遣隊が厚木に来て安全を確保したり日本の情勢を十分に調べたりしていたんです。 マッカーサーはこれから始まる日本の占領政策を現在も残る建物にはマッカーサーの執務室が保存されています。 つまり日本側が作った滑走路ですからそこにアメリカの大型機がいきなり着陸したら滑走路が壊れるかもしれない。

日本人はどんな暮らしをしていたのでしょうか?アメリカナショナルアーカイブスに終戦直後の庶民の声が残っていました。 インタビューアーは日本語が堪能なアメリカ人兵士です。 いよいよ昭和天皇とマッカーサーが相対します。 占領期とよばれる1945年から1951年までの6年間に昭和天皇とマッカーサーが形づくったものを見てまいりましょう。 どんなことが話し合われたのかといいますと『昭和天皇実録』という天皇がお生まれになってから崩御されるまでの活動をまとめた記録にそのときの様子が記されています。

一方日本国民はどう考えていたんでしょうか?こちら1945年12月9日の読売報知の調査です。 天皇のために戦って敗戦により苦しみを味わっていた日本国民。 報告書でも昭和天皇の退位の話が出ていたんですけど実は終戦直後の8月29日。 マッカーサーが来る前日昭和天皇は責任を負ったらどうだろうかと検討していたということでしょうね。 で戦争責任を負うことも辞さないというこの天皇のお考えを評価したマッカーサーは天皇を訴追しないということを決めるんです。 昭和天皇は終戦の翌年から全国巡幸を始められます。

日本国憲法に署名している昭和天皇です。 そうですねさあところがどうだったのかということなんですがマッカーサーは当時の幣原総理に日本政府は新憲法の草案作りを進めていたんですがそこでスクープされた日本政府の草案は「天皇は君主にして統治権を行ふ」とあり旧憲法と大して変わらないものでした。 だから押しつけ憲法だっていう当然こういう見方もあるわけですが実は憲法改正について昭和天皇はどんな考えを持っていたのでしょうか?当時の幣原総理にこう語っています。

「マッカーサーアメリカ大統領の実現を日本からマッカーサーを応援しようと路上で署名運動も行われたそうです。 日本にいたアメリカ軍の多くが朝鮮半島へ。 日本を非武装国家にしようとしたマッカーサーの理想は戦後わずか5年で転換を余儀なくされたのです。 つまり可能なんですけれども当時は日本人は12歳って言ったっていうそこだけが日本側に伝わって冷めてしまったということがあるんですけどね。 2013年のアメリカの経済史『フォーブス』の大学ランキング調査によりますとハーバードより上全米7位なんだそうです。

よき紳士であれというのはやっぱりアメリカでもそうなんですか?太平洋戦争でアメリカに勝利をもたらした英雄が祖国に戻るとダグラス・マッカーサーは今ノーフォークで最愛の妻ジーンとともに眠っています。 さあそしてもう一人の主役昭和天皇はどんなものを今に残したんでしょうか。 国の象徴として終戦から40年以上平和を訴え続けた昭和天皇。 即位して間もなく父昭和天皇の悲願だった沖縄訪問を実現。 そしてその昭和天皇なんですが昭和天皇なんですが敗戦直後の昭和20年9月9日に疎開先で暮らしている当時11歳の皇太子。