なんでも鑑定団の今田&福澤が新説に迫る!ナゼ、あの歴史は消えたのか?

戻る
【スポンサーリンク】

この番組のまとめ

教科書で源頼朝として伝えられてきた肖像画にいたっては近年の研究で別人である可能性が高いと判明。 町へお忍びで繰り出した8代将軍徳川吉宗が町にはびこる悪人たちをバッタバッタと成敗すると書かれている。 正義の味方暴れん坊将軍徳川吉宗はなぜ嫌われたんでしょうか?吉宗はもともと徳川将軍家に連なる御三家の一つ今の和歌山県にあたる紀州藩その藩主の四男として生まれた。

世間から米将軍とやゆされるほど米の増産を推し進めた徳川吉宗だが…。 正義の味方暴れん坊将軍徳川吉宗が庶民から嫌われていた理由。 その影で誰より倹約に励んだのは吉宗自身だったという。 工事費用を節約するため吉宗は堤防にあるものを植えたという。 徳川吉宗は改革で庶民から嫌われたが身をもって倹約の大切さを示しその後100年に渡る幕府の繁栄を支えた将軍だった。

そんな秀吉といえば気配り上手陽気そしてお調子者。 なぜ秀吉はこれほど冷酷で傍若無人な支配者となってしまったのか?アメリカ歴代大統領の中でも屈指の人気を誇るジョン・F・ケネディが尊敬してやまない日本人がいた。 この頃天下人となった利休は織田信長にも仕えていた人物で秀吉とも長年のつきあい。 人望がありよき相談相手だった利休を秀吉の実の弟である豊臣秀長だ。 あの利休切腹命令が秀吉から下されたのである。

では上杉鷹山について地元山形県米沢市の人々に聞いてみると…。 更に上杉鷹山に関する著書を多数執筆している作家童門冬二さんに話を伺うと…。 だけども上杉鷹山は高鍋藩主秋月家の次男として生を受けた。 そして将来の藩主として鷹山は家庭教師からリーダーとしての哲学を日々教わることに。 そして義理の父である米沢藩主重定が病に倒れたため鷹山はある日…。 しかしその一方鷹山が藩主となった米沢藩の前途は実に多難。 それは後を譲る際鷹山は次期藩主と家臣たちへ向けた書状に…という意味だった。

そして今回注目する偉人は戦国武将伊達政宗。 対面を気にする秀吉の性格を見抜いた伊達政宗は決死のパフォーマンスで窮地を切り抜けたのだ。 秀吉の配下となった伊達政宗が朝鮮出兵を命じられたときのこと。 なんと伊達政宗を筆頭に全員が金銀まぶしい絢爛豪華な戦装束を身にまとっていたのだ。 そんな伊達政宗の振る舞いから派手でしゃれた意味の伊達者という言葉が生まれたとも。 実は超がつくほど料理通だった伊達政宗。 人気の戦国武将伊達政宗の知られざる功績。