しかしこの少年王ツタンカーメンの真実が明らかになる徳川家康の策略によって大坂城は火の海と化しはるか九州で徳川幕府を揺るがしたあの美少年に受け継がれていた。 策略をめぐらしエジプトを乗っ取ろうとしていたその手に権力を握るため繰り返される暗殺劇それは驚くほど壮大で豪華絢爛な王墓だったツタンカーメンの実像を探るためエジプト・ルクソールを目指しますいまだ謎のベールに包まれる少年王ですがそこにはきらびやかに輝く副葬品が眠っていたこちらがツタンカーメン王墓です。
そのケガが致命傷になってしまったのでしょうか吉村先生は…ならばその犯人はいったい誰なのか?その手がかりはツタンカーメン王墓に隠されていましたツタンカーメン王墓の壁画に描かれた1人の男…その名はアイ。 少年王誕生の背景にはある男の…ツタンカーメンの実の父親である犬の姿をした鳥の姿のなかでも最高神としてまつられていたのは太陽を司る当時アメン神に仕える神官たちは絶大な権力を握っていた。
アクエンアテンは病死ともいわれますが…敵対する勢力があったと考えられるのだツタンカーメンの父アクエンアテンには敵対する勢力があったと考えられるアクエンアテンと対立していた人物それはやはりアイだったのではないでしょうか?アイにはアクエンアテンを暗殺する動機があった。 アクエンアテンの父に嫁いだ際アイもエジプトの中枢に入り込んだしかしヒッタイト帝国が勢力を広げミタンニを支配下に置いたのだ。
しかしツタンカーメンは両親がその生涯を捧げたアテン信仰を密かに受け継いでいました。 アクエンアテンやネフェルティティを殺害したこの怪我が原因で敗血症にかかり数日後についにアイはファラオとなった。 アイは最後の最後にホルエムヘブという最も身近な人物に足をすくわれたエジプトは外国人の手には渡さん。 ホルエムヘブはその後ファラオとなり28年間エジプトを統治。
では秀吉が築いた最初の大坂城とはいったいどんな姿だったのでしょうか?天守閣の外壁には黒漆を塗った板が貼られ五層の大屋根の瓦には金箔がふんだんに用いられていた当時は他に光る建物など存在しなかったため日を浴びて光り輝くその姿に民衆はおののき秀吉の絶対的な権力の象徴となったのだ歴史家の加来耕三さん。 難攻不落の大坂城の誕生には秀吉自身が苦戦した城攻めの経験が役立っているといいます秀吉は大坂城を築城し始めてから7年後に小田原攻めを行い難攻不落の城の着想を得ている先生ここは何ですか?ここがですね小田原城の…。
いったいこのことは何を意味しているのだろうか?当時大坂城を作ることで生まれたある名物があるんです。 当時の記録にも秀頼の最期の様子がしたためられており大坂城で死んだことは疑いもないように思えるところが残されている記録には不可解な共通点があります。 この地には秀頼薩摩落ち伝説を示すものが数多く残っているこの川は木之下川といってそれで木之下集落とか木之下川というのが残ってるんです。
本当に秀頼の子国松はこの地まで逃げ延びていたのでしょうか?その答えとなるものが日出から北に20キロほど行った立石のお寺にあると伺い訪ねてみましたあちらが木下家の位牌堂になります。 このあと日本を騒然とさせた城の名は島原・天草の乱は幕府や領主による厳しい年貢の取り立てやキリシタン弾圧によって苦しめられていた一揆軍を率いた天草四郎天草からなど四郎は農民たちの前で次々と奇跡を起こしていったという突如現れた神の子天草四郎は圧政に苦しんでいた農民やキリシタンの心をつかみ農民中心の一揆軍が数度にわたって幕府軍を撃退。
通称知恵伊豆自らが原城に向かったのだ指揮にあたった信綱は一揆軍の強さを目の当たりにすると聡明な信綱はこれが単なるキリシタンの反乱ではないと見抜いたのだするとその時でした。 それは天草四郎の馬印…実際に江戸時代に描かれた合戦図や文献の中にも天草四郎の馬印が金の瓢箪であったことが記されている異常に強い一揆勢。 その戦いは老中松平信綱の命のもと現在ではキリシタン一揆として知られている島原・天草の乱。