1934年 ファッションデザイナーとして初めて 雑誌「タイム」の表紙を飾りその大胆さと独創性で シャネルのライバルとして脚光を浴びました。 スキャパレリは 今はあまり知られていませんが1930年代当時は 世界で最も有名なファッションデザイナーでした。 ファッションデザイナーがセレブ的な存在になったのは20世紀の初めです。 シャネルは少年のような女性のイメージをファッションを通じて形にして見せました。 スキャパレリもシャネルも 独学で 技術を身につけたファッションデザイナーです。
スキャパレリのセーターへの熱狂は前の年にシャネルが発表したリトルブラックドレスの流行を超えました。 多くの女性の悲しみを受け止めたという点でリトルブラックドレスはファッションの歴史の中で考えてもリトルブラックドレスは すぐにファッションの定番になりました。 若いスキャパレリは これをシャネルと肩を並べる好機と捉えます。 シャネルは スキャパレリが貴族階級出身だという事が妬ましかったのでしょう。
その後 エルザ・スキャパレリは娘とともに捨てられ一文無しになります。 離婚とほぼ同時期に父親を亡くしたスキャパレリは二度と結婚しないと誓います。 シャネルは 辛辣な口調でスキャパレリをイタリア人と呼びスキャパレリは シャネルを帽子職人と呼びました。 スキャパレリを 芸術家の集まりにいざなったのは画家 フランシス・ピカビアの妻ガブリエルです。 スキャパレリが ガブリエルと出会ったのはアメリカに向かう船の上でした。
ストラヴィンスキーやピカソと共同制作をしていたシャネルは1920年代モダニズムの中心人物だと自他ともに認めていました。 こうした奇抜さをシャネルは嫌いますがスキャパレリに対抗するために自分が大切にする堅実さは脇に置いてやや奇抜なイブニングドレスのデザインを試みます。 しかし 効果はなくシャネルの顧客は次々とスキャパレリのメゾンへ流れていきました。 1929年の株の暴落に続く大恐慌のあとハリウッドは 映画製作を再開し女性客を呼び戻すためにココ・シャネルとエルザ・スキャパレリに目をつけます。
そうした女性たちの1930年代 ハリウッド映画にスキャパレリのデザインはぴったりだったんです。 一方 スキャパレリのコレクションは芸術作品であり多くの人の手がかかっています。 スキャパレリのコレクションにマスコミが殺到するのを見てシャネルは 記者たちを引きつける巧みなアイデアを思いつきました。 シャネルは 化粧品ではライバルに勝ったものの批評家たちは スキャパレリを1930年代のトップデザイナーと賞賛しました。
現金持ち帰りコレクションは急いでいる時や 仕事中にスキャパレリはアメリカに行く事を決意します。 フランスとアメリカを頻繁に行き来するうちにスキャパレリは 情報機関に目をつけられるようになります。 イギリスの情報機関はイギリス国内での香水の売上金がスキャパレリは フランスのレジスタンスからも疑いの目を向けられました。 スキャパレリがアメリカで楽しい時を過ごしおいしいものを食べ暖かい場所で眠っていた頃パリの人々には 車もなく十分な食べ物も暖房もなかった。