復興~長崎原爆 市民の記録〜

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自ら復興会社を設立したのです。 復興会社が手がけた数々の建物。 長崎 復興の記録です。 だから 私たちは…長崎の復興を目指していち早く動いたのは市民でした。 設立趣意書には 市民による復興への意気込みがつづられています。 そのころ 長崎には2万3,000人もの進駐軍が市民による復興会社…僅か1か月後中部が再開させました。 長崎の復興に注目している研究者がいます。 全国の戦災復興を調査しています。 会社は 町の復興とともに成長。 今回 全国に住む元社員を捜し当て復興当時の話を聞く事ができました。

原爆投下の翌年長崎県が作成した復興計画です。 区画整理には 所有者から 土地を提供してもらう事が必要です。 原爆投下の4年後区画整理の仕事は県に引き継がれました。 杉本は 子どもたちを育てる事が地区の復興につながると考えたのです。 暮らしの復興のため行政と戦いながら奔走する杉本はいつしか 原爆男と呼ばれるようになっていました。 更に 杉本は小学校の再建に乗り出します。 だから 城山小学校を復興させて一人の町内会長によって暮らしの復興への道筋がつけられたのです。

原爆投下から14年後長崎の町を一望する 稲佐山に造られた ロープウェイ。 いつ 放送すると?今 放送されよっと?城山国民学校に通っていた…私ら ここ 音楽室。 小学校 中学校 一生懸命頑張っていたんだけど更なる暮らしの復興のため被爆者の支援にも挑み始めます。 杉本は 被爆者専門の医療機関の設立を訴え続けます。 杉本亀吉さんたちが 私たちの面倒を見て下さったんで自分が仲人してやるから結婚せえよという事でして頂いたんですね。