戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 第2回「水俣」

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チッソ水俣工場の排水に含まれていた有機水銀に 魚介類が汚染されその魚介類を食べた人が脳や神経を冒された有機水銀中毒です。 坂本しのぶさんは 母親の胎内で有機水銀に冒された胎児性水俣病患者です。 当時 チッソの社内で水俣病の原因は工場排水なのかどうか研究していた人たちがいます。 原因企業 チッソの社員たちも水俣病は 地域全体に大きな影響を及ぼしました。 戦時中 水俣工場は爆薬や防弾ガラス 軍服の素材などを製造する軍需工場でした。 中でも朝鮮半島北部の興南工場は世界有数の巨大化学工場でした。

水俣病の症状で 一時は ボールペンも持てなくなったといいます。 わ~ 自分もまさか水俣病やろうかって思ったらガックリしましたよ。 水俣病患者上野エイ子さん 85歳です。 明水園では 重症の胎児性患者や高齢の水俣病患者など上野さんは 豊かな海を臨む水俣の湯堂地区の漁師の家に生まれ育ちました。 湯堂は 後に水俣病多発地域になります。 市立病院今は もうないですけど今は 小児科かな?あそこだったんですけど…その時はタクシーで帰ったんですけど…水俣病の原因としてチッソ水俣工場からの排水が疑われました。

昭和34年11月厚生省の 食品衛生調査会水俣食中毒部会は「水俣病の主因は ある種の有機水銀化合物である」と厚生大臣に答申しました。 その後 水俣病対策は水質保全法を所管する経済企画庁へと移ります。 当時 経済企画庁の課長補佐だった汲田卓蔵さんは止められないんじゃないかと。 だから 「時代に負けてそれを担当する役人が何もしなかったじゃないか」昭和35年 池田勇人首相は10年間で 所得を倍増させるという「所得倍増計画」を唱えました。

山下さんは 水俣病の原因はチッソではないと信じていました。 同僚から 「工場排水から抽出した有機水銀だ」とビーカーを 見せられました。 その時は やっぱり話したい衝動は ありますけどそれを話すと クビになると企業秘密を漏らすと というのでそして 従業員自身も愛社精神というか医学界の常識を覆す論文が熊本大学の 原田正純医師によって発表されます。 製造工程で 有機水銀が出るアセトアルデヒドの製造が終了。 有機水銀を含む工場排水は止まりました。

やっぱり 我々も とことんいじめられたけども俺も 同じ弱い立場から見るあれも私の心の中には工場内で 実際に水俣病の研究をしていてその研究が反論のための研究だったと。 裁判の中で 過失を否定するチッソに対し大阪で開かれた チッソ株主総会に行きました。 患者を非難しチッソを擁護する ビラが「水俣病」という病名のせいで商店街や 旅館の売り上げが落ち込んでいると「病名変更運動」も起こりました。 不知火海で取れる 海の幸を売りにしていた旅館では水俣病が報道される度に客足が遠のき経営が圧迫されてきたといいます。

だから この生きている水俣病患者の 生きるために私たちは 今からの仕事が残っておりますので今後とも 最後まで患者の生きておるかぎり支援を お願いします。 水俣病かどうかは医師で構成される認定審査会で決められます。 第一次訴訟で患者が勝訴すると水俣病の認定申請者が急増します。 どこまでを水俣病と認めるのかその線引きをめぐって今に至るまで議論が続いています。 患者たちが求めてきた不知火海沿岸 全住民の健康調査は今回も見送られました。