41年前 たった一人で 全国の空襲被害者たちに呼びかけ生き残ったものの 傷つき障害を負った人々の その後は詳しい調査も行われてきませんでした。 杉山さんは そうした空襲被害者たちを調査し 訪ね娘がね 「お母さんの顔 見るの怖い」って言うんですよね。 全国に散らばる戦災傷害者たちの記録を支援を世に訴える活動をしています。 そういう問題を新聞が 戦争が終わって 27年たってるのに1970年代から20年がかりで記録してきた全国の戦災傷害者たちの映像が残されています。
起訴猶予となった2人は杉山さんと出会い亡き長男への償いも込めて戦災傷害者への救済を訴える活動に参加します。 昭和47年 57歳の杉山さんは全国戦災傷害者連絡会を立ち上げます。 41歳の時 杉山さんと出会った伊賀さんは大阪の戦災傷害者の代表として仲間たちと何度も上京し国に支援を訴えました。 内容は国家補償の精神に基づいて一般市民の空襲被害者にも軍人軍属と同様の 国による援護を求めるものでした。 戦争っていう 国の存亡に関わる非常事態なんだから…東條内閣が制定した戦時災害保護法です。
厚生大臣だった橋本龍伍氏などの働きかけもあって 昭和27年戦傷病者戦没者遺族等援護法が国会で成立。 全国戦災傷害者連絡会の冊子には杉山さんが声を上げてから40年以上がたちました。 25年前を最後に国会で取り上げられる事も国との雇用関係がない一般市民に対しても支援ができる その論理とは何か。
帯状疱疹と診断され痛くて自分一人で起き上がる事もできません。 「国が起こした戦争によって被害を受けた者でありながら空襲被害者が差別されるのは おかしい」と国による謝罪と補償を求めたのです。 一方 東京大空襲の被害者たちも裁判を起こしていました。 結論的には 原告の敗訴ではあったわけですけれども最高裁判決の3年前平成22年には遺族や孤児などより広い空襲被害者を集めた全国組織が発足。 それを支持する超党派の議員連盟が結成され衆参 合わせて50名の国会議員が集まりました。