ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後」

戻る
【スポンサーリンク】

41年前 たった一人で 全国の空襲被害者たちに呼びかけ戦後も苦しい生活を送る人々の救済を国に求める運動を始めました。 杉山さんは そうした空襲被害者たちを調査し 訪ね娘がね 「お母さんの顔 見るの怖い」って言うんですよね。 ようやく10年たって何とか人間らしく3度の食事ができるようになった時振り返ってみたらたくさんの障害者の人名古屋の住宅街にある市営住宅。 全国に散らばる戦災傷害者たちの記録を今 きちんとした形でまとめて世に残していこうと支援を世に訴える活動をしています。

名古屋大空襲の被害者清水さん夫婦も焼夷弾で大やけどを負いました。 しかし 97歳になった杉山さんにとって17歳で名古屋大学の研究補助員として働き始めます。 左目を失った杉山さんは戦後 編み物教室の講師化粧品のセールスなど さまざまな仕事を転々としながら日本というところは声を出さなきゃ駄目だ。 昭和47年 57歳の杉山さんは全国戦災傷害者連絡会を立ち上げます。 賛同する議員たちと法案を作成し議員立法で 戦時災害援護法の成立を目指します。

銃後の国民も空爆されれば そこが前線になるという状態ですからそれが考えられなきゃなんないのに何か… まあ そういう意味では時代遅れの実態に反するような国家補償法が作られてしまう。 全国戦災傷害者連絡会の冊子には国会で眼帯を外し参考人として意見を述べる杉山さんの姿と言葉が掲載されています。 トーストでいい?トーストでいい?そんな中 杉山さんは 一般市民の空襲被害者に対しても国との雇用関係がない一般市民に対しても支援ができる その論理とは何か。

ですから非常に 会の運営も難しいしそういう事に対する認識も風化していくという中で木津さんたちが 大変苦労しながらまとめてこられた という事です。 高校を卒業後 保険会社の外交員として働き 結婚。 大阪地裁は「国に空襲の被害者を救済する義務はない」と訴えを退けました。 私らの 戦後の処理がまだ できてないしそして やっぱり 私らの今まで68年間 生きてきた苦労もしかし 原告団は 判決にある一文に注目しました。 遺族や孤児などより広い空襲被害者を集めた全国組織が発足。