今月末 富士山は世界文化遺産として登録される見通しになっています。 今 多くの日本人が富士山の価値を忘れてしまったのではないかと言います。 だって 富士山は日本人の心の寄る辺 中心ですよ。 今や 年間30万人が登山する一大観光地となった富士山。 太古の昔から 現代まで日本人が 富士山をどう捉え♪~その起源を探るため富士山を祭った最も古い神社を訪ねました。 1万1,000年前 大鹿窪遺跡に暮らした人たちが見た富士山は今と異なり荒々しい山だったのです。
そこには 50cm大の大きな溶岩石と100個の小さな溶岩がやっぱり 精神的なものは富士山みたいなものを仰ぎ見ながら 恵みに感謝して日々 祈っているというような。 発掘現場を 航空写真で見ると長さ40mもの組石が富士山に向かって直角に並べられています。 そして 弥生中期まで遡れる…富士山を 御神体として崇める この神社ははるか1万年以上前の縄文人から富士への祈りを受け継いでいる場所だと中沢さんは考えています。
家康公が奉納される時にやっぱり 富士山のイメージ高いイメージを されたんじゃないかなっていうのが一番あるんじゃないかな。 「富士山頂…」。 その ご威光の支えの重要な部分は やっぱり富士山だったなという気がしますね。 徳川家康が 江戸にやって来て1590年 天正18年なんですけれど江戸城を挟んで 富士山とはちょうど反対側に位置しています。 通りの奥には江戸城の石垣が見え更に奥に 富士山がそびえます。 家康は 富士山を江戸の町の シンボルにして庶民に強く意識させようとしたのだと 大石さんは言います。
庶民を救うため生涯 44回 富士山へ登り厳しい山伏の修行を続けました。 1707年 身禄 37歳の時富士山が大噴火。 富士山で修行を続けてきた身禄はこの時 庶民のために命を捨てる決心をします。 身禄の死後 その教えを弟子たちが広めたのが 富士講でした。 それと同じように富士講の 富士山を詣でるって行為を通して社会全体が変わっていくよというぐらい身禄さんは想像力豊かな事を言うんですよ。 人々は 身禄の足跡をたどろうと富士山の登り口がある吉田に殺到します。