日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる この日摩文仁では戦没者追悼式が行われます。 30年以上 摩文仁周辺で遺骨を掘り続けています。 6月23日 摩文仁で 日本軍の組織的戦闘が終わります。 向こうの住民が見た時にはアメリカは ブルドーザーで死体の山を当時 村長だった 金城和信さんは反米感情をあおるとして遺骨収集を禁止していたアメリカ軍と交渉し村民による遺骨収集班を作りました。
摩文仁は今太平洋戦争の戦没者を当時 沖縄県の職員だった大城将保さんです。 生き残った住民への聞き取り調査を記録した沖縄県史の編纂に関わっていました。 名前は 沖縄県立平和祈念資料館なんですよね。 これは広島の原爆東京の空襲見ても分かるとおり戦争の最大の犠牲は軍人じゃないんですよ。 軍人や民間人 国籍を問わず沖縄戦で亡くなった全ての犠牲者の名前を石に刻み 追悼する慰霊碑です。 大田さんは 沖縄師範学校在学中の1945年3月鉄血勤皇隊に動員されました。 日本軍司令部と行動を共にし摩文仁に追い詰められました。
黎明之塔のすぐ下に 第32軍司令部の戦死者を慰霊するいつも お花はバラですか?8歳年上の夫を 「お兄ちゃん」と呼び 慕いましたが翌年 長野少佐は沖縄に配属となります。 「先の大東亜戦争にて 沖縄の…」長野少佐との結婚生活は僅か半年。 自衛隊は 沖縄戦で残された不発弾の処理や離島の救急患者の輸送などを通じて少しずつ県民の理解を得ようと努めてきました。 隊員による 黎明之塔の参拝は復帰直後に一度行われましたが三重県出身の…これは3年前の映像です。