描くのは自分が使っている掃除道具。 ガタロさんは誰も注目しない掃除道具を自分の仲間 分身と感じている。 清掃員 そして画家として生きてきたガタロさんの半年間を見つめた。 広島市の中心部原爆爆心地近くに建つ基町高層アパート。 ガタロさんが使う掃除道具。 掃除道具を運ぶのは ガタロさんが「大五郎」と名付けた愛車。 その後 キャバレーのボーイ日雇いの解体工事食肉加工場の作業員などいくつも仕事を試すがどれも体がもたず 続かなかった。
30年前 清掃員になって描き始めたのは 掃除道具。 清掃員の仕事を始めた 30代の頃最初は 腰が痛くてね。 自分も 清掃員として絵描きとしてガタロさんは 清掃の仕事を始めて7年後 40歳で結婚した。 今は 一人息子が独立し看護師の仕事をする妻との2人暮らし。 もっと もっと いい報酬はもらってましたけど人間って やっぱりそういう事も大事ですけど仕事が とにかく 毎日毎日がハードできつくて きつくてなかなか うまくいかなくてもう ほんと半分 燃え尽き症候群みたいな感じになっとったんですよね。
昭和20年8月6日あの原爆を生き抜いた被爆樹だ。 ガタロさんは 基町の商店街で仕事を終えると広島で生まれて 広島で育って子供の頃からこの原爆ドームの事はそういうような事も含めて原爆ドームの前にとにかく 立ち続けて真っ正面から向き合ういう事が大事だと思うたですよ。 広島に原爆が落とされて67年目の日にガタロさんは一つの行動を起こした。 ふるさとの事原爆で亡くなった人々の事父親の事を思いガタロさんは オブジェを持って原爆ドームに向かった。 声をかけたのはガタロさんが働き始めた頃の商店会の世話役 新田孝志さん。