逮捕から6年後永山の精神鑑定が行われました。 録音したのは…永山の精神鑑定を担当しました。 278日にわたって被告人本人の言葉を引き出した日本の裁判史上 例を見ない鑑定書となりました。 通常の医学的検査の他に家族の系譜や 両親の結婚生活しかし この精神鑑定書はその後の裁判で生かされる事はありませんでした。 最高裁判所はその存在にすら触れず鑑定書は 司法の世界で忘れ去られていきました。 そして 事件の原因を明らかにするためにも精神鑑定を受けるよう説得しました。
永山が 「セツ姉さん」と呼んだのは19歳年上の長女の事です。 進学を諦め 永山ら幼い子供たちの育児に追われていました。 永山の母 ヨシは…2歳で父を失い母親と樺太に渡ります。 母に捨てられた永山則夫たち 4人の兄弟。 このころの永山家は父は 音信不通。 永山は その7つ上の次男から親のいない6畳の部屋で連日のように 暴力を振るわれるようになります。 そういう中で生まれた子ですし生まれてきてみたら またそれが 夫に似てるからそれで余計 憎しみが永山則夫に行ったんでしょうね。
永山家の墓地には墓石がなく母に言われて家にあった漬物石を置きました。 それから数年がたち永山が中学1年になった冬鑑定書は 永山が後に上京して事件を起こすまで何度も自殺未遂を繰り返す事に触れ長女の事件と 父の死は 「自分はなぜ生まれてきたのか」と絶望し自殺を考え 実行しようとする原点になったと分析しています。 上の兄たちが集団就職で上京していなくなってから今度は永山が 妹と姪に暴力を振るうようになります。 金がなく 上京の準備もできず永山は 呉服屋でワイシャツを盗みました。
石川さんは永山が持つ被害妄想や逃走癖は幼少期の体験に根ざしているのではないかと考えました。 90年代後半から脳を画像化する技術が進みPTSDが脳にもたらす影響が解明されてきました。 これまでの研究ではPTSD患者の中でも幼児期に虐待を受けた人は左右の海馬のうち 左側だけが虐待を受けていない人より平均12~16%小さくなっていました。 研究者たちは児童虐待は脳を傷つけ永山が上京して2年たった頃栃木にいた次男が上京してきます。 永山は アメリカ軍 横須賀基地に侵入します。
そして逮捕後は 懸命の勉学や自己分析を深めており昭和54年 一審の東京地方裁判所は石川鑑定を全面的に否定しました。 更に 裁判官だけではなく永山自身も自分にとって有利に働く可能性のあった石川鑑定を否定しました。 私は 「船田判決」っていうのは石川鑑定に 全面的に依拠した判決だっていうふうに。