戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 第6回「三陸・田老」

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この番組のまとめ

♪~昭和8年に三陸を襲った 大津波で田老は最大の犠牲者を出しました。 三陸各地に 次々と防潮堤が築かれていきます。 田老にも 2つ目 3つ目の防潮堤が造られます。 チヱさんが 小学校6年の時襲ってきたのが昭和三陸大津波でした。 こう考えた関口は防潮堤を造り田老の人々の暮らしを守ろうと考えたのです。 昭和8年の大津波から 間もなく田老の人たちは次々と 海辺に戻っていきました。 関口村長が東京から来た技師と練り上げた田老の復興計画図です。

昭和8年の大津波に耐えうる防潮堤が計画されました。 防潮堤の建設は中止され田老の人たちも戦争に動員されていきます。 昭和33年 田老最初の防潮堤が完成しました。 結局田老一中生への思いとしては防浪堤の中で きっちりと校歌3番 用意!オーッス!地元で防災対策にあたってきた山崎正幸さんです。

被災から1か月という早さで公布されたのが津波は 基本的に構造物を造って防ぐという方向にチリ地震津波特措法に基づき特措法によって 岩手県だけで防潮堤や防波堤が 48か所海面から 最大で5.5m。 対策事業が終了した翌年三陸各地の防潮堤が効果を発揮する出来事が起きます。 田老町もチリ地震津波特措法に基づき新たな防潮堤の計画に乗り出します。 田老町は 新たな防潮堤を造り宅地を増やそうとします。

町では 多くの住民に避難訓練に参加してもらおうと東日本大震災が起きる前から田畑ヨシさんは 津波の記憶を伝えていく活動を続けていました。 チリ地震津波特措法を受けて造られた 第二の防潮堤。 津波対策のための防潮堤や防波堤は2011年までに 岩手と宮城でおよそ190か所170kmにわたって築かれていました。 チリ地震津波特措法によって出来た 総延長3.8kmの防潮堤。 千年に一回程度 襲ってくる最大級のレベル2の津波は防潮堤を越える事を想定。