ETV特集「戦時徴用船~知られざる民間商船の悲劇〜」

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この番組のまとめ

海洋国家日本として 平和と繁栄を享受できているのはこれらの方々の尊い犠牲とご功績の上にある事を物資や人員の輸送に船員ごと投入されました。 これらの絵画を描いたのは…大正時代から戦後まで 30年近く大阪商船に勤めた嘱託画家でした。 大阪商船は 明治17年関西にあった海運会社を統合する形で誕生しました。 大阪商船は日本の国力の伸びとともに朝鮮半島や中国大陸へと航路を広げていきます。 昭和17年の4月には船舶運営会という一度に4千人もの兵員や資材を載せ日本と占領地域の間を往復する任務に就きました。

入る直前に ブリッジのとこから今回の取材で大久保の絵画を撮影した白黒フィルムが残されている事が分かりました。 大久保一郎は 明治22年大阪で生まれました。 絵を描くのが得意だった大久保は中学生の頃から画家を志すようになったといいます。 大阪商船で 嘱託画家として職を得たのは 大正15年大久保が 自らの絵について回想した文章が一つだけ残っています。 戦争中に描いた絵について生前の大久保から直接 話を聞いた人がいます。 照合していくと大久保の描いた絵の 記録性の高さが浮かび上がります。

米軍機の爆撃により炎上する船の上でなお補給物資の陸揚げ作業を続ける船員たち。 劣勢を挽回しようと日本軍は 1か月後更に 11隻の徴用船を動員して二度目の輸送を強行します。 大阪・四天王寺で殉職船員の慰霊祭を行いました。 開戦から3年目を迎える頃から輸送船の被害は更に増えていきます。 米軍は 数多くの潜水艦を効果的に配置して輸送船を待ち伏せました。 一度この作戦の網に掛かったら護衛が手薄な日本の輸送船が逃げきる事は まず不可能でした。

商船学校を繰り上げ卒業して初めて乗り組んだ船が鴨緑丸でした。 楔を持って その機銃掃射をやられた所へ飛んでいってきれいな青い水で あの時にきれいだと思いましたな命懸けだったのに。 鴨緑丸には 機銃や高射砲が装備されていました。 鴨緑丸は2日間の攻撃に耐えたものの最後は 小西さんたちが見守る中炎を上げて沈んでいきました。 当時 戦時標準船と呼ばれていた船です。 材料を徹底的に節約し少ない労力で短期間に作れるよう規格化された船それが 戦時標準船でした。