ETV特集「戦時徴用船~知られざる民間商船の悲劇〜」

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この番組のまとめ

太平洋戦争中民間の船は軍の管理下に置かれ物資や人員の輸送に船員ごと投入されました。 これらの絵画を描いたのは…大正時代から戦後まで 30年近く大阪商船に勤めた嘱託画家でした。 大阪商船は 明治17年関西にあった海運会社を統合する形で誕生しました。 大阪商船は日本の国力の伸びとともに昭和14年 南米航路に就航した…しかし こうした船の建造には政府の補助金が使われていました。 特に 昭和12年以降の「優秀船舶建造助成施設」というのは明らかに日本の助成を受ける商船は昭和16年12月8日未明。

大久保は 船と船員の生と死を父親は ニューヨークの商船学校に学んだ船乗り。 戦争中に描いた絵について生前の大久保から直接 話を聞いた人がいます。 まさに 大久保さんの判断ですから大変なご苦労があったと思う。 照合していくと大久保の描いた絵の 記録性の高さが浮かび上がります。 こうした光景はぶゑのすあいれす丸の事故報告書には記されていません。 しかし 元大阪商船社員の野間さんは大久保の描写は想像の産物ではないといいます。 野間さんが3年の歳月をかけて まとめた「商船が語る太平洋戦争」。

ところが 翌日の朝事態に気付いた米軍機による猛攻撃に さらされます。 妹尾八重子さんの夫 藤太郎さんは九州丸の乗組員でした。 米軍機の爆撃により炎上する船の上でなお劣勢を挽回しようと日本軍は 1か月後更に 11隻の徴用船を動員して二度目の輸送を強行します。 船から ようやく脱出し島にたどりついた船員もだから こういうところで船員が丸腰で現地へ行って当時 社長の岡田永太郎の執務室は2階にありました。 大阪・四天王寺で殉職船員の慰霊祭を行いました。

商船学校を繰り上げ卒業して初めて乗り組んだ船が鴨緑丸でした。 機銃掃射だったんですな。 鴨緑丸には 機銃や高射砲が装備されていました。 鴨緑丸は2日間の攻撃に耐えたものの最後は 小西さんたちが見守る中炎を上げて沈んでいきました。 当時 戦時標準船と呼ばれていた船です。 とにかくねこの戦時標準型いうのはものすごく弱いんですよ。 昭和20年2月7日 大暁丸は重油などの物資を満載してシンガポールから日本へ向かう途中魚雷攻撃を受けて沈没。 造船会社を退職後戦時標準船についての研究を続けています。