ETV特集「発見!謎の金銅製馬具~古代日本と朝鮮半島の交流史〜」

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この番組のまとめ

一番の醍醐味ですか?キラキラと輝く金銅製の装飾馬具が大量に発掘されたのです。 今夜は謎の金銅製装飾馬具と共に知られざる古代の歴史を旅します。 こちらが 去年 豪華な金銅製馬具が出土した 九州北部の古墳です。 このL字形の遺構から飾り金具 鈴研究者の協力を得てこうした馬具をつけた様子を6世紀末から7世紀にかけて海峡を挟んだ倭国と新羅との関係は最悪でした。 朝鮮半島南部の伽耶を 新羅が併合してしまったからです。 朝鮮半島新羅で見られる技術です。

九州の首長たちは5世紀前半代から日本列島全体に…例えば 山陰 北陸あるいは 瀬戸内海両岸にネットワークを持ってたわけですね。 ヤマト王権と敵対していた新羅の ねらいはその豪族とは 一体どんな人物だったのでしょうか?実は 朝鮮半島との交流で栄えた北部九州の豪族には当時 磐井は 北部九州一帯を支配下に置く 有力な豪族でした。 その糟屋屯倉と想定される場所からあの装飾馬具が出土した船原古墳までは 僅か4km。 新羅との関係がヤマト王権に見つかるのを恐れて装飾馬具を一時的に隠したのではないか。

これらは 船原古墳の出土品とよく似た韓国南西部かつて倭国と友好関係にあった積み上げて玄門を構成するんですけど…石室の壁に ベンガラという鮮やかな赤い塗料が塗られている点も北部九州の古墳と共通しています。 形が はっきり分からなかった遺跡の中に日本の前方後円墳と極めて よく似たものが次々 確認されていきます。 では なぜ 朝鮮半島に前方後円墳が生まれたのか?「百済王が亡くなり当時 倭国にいた息子後の東城王が帰国する際九州は 筑紫国の兵隊五百人が随行した」。

「任那日本府」の問題というものがありましてこれは 日韓で歴史の古代史の議論をする時にはほんとに これは もう喉の奥に刺さった骨のようなものでですね…。 「任那日本府」は「日本書紀」に記されています。 日本の教科書でも「伽耶」という表現が実は 私はそうではないと思うのは任那日本府というのは「日本書紀」に書かれてるそのとおり考えたら4世紀後半から成立するんです。