ミュージック・ポートレイト「高田純次×大竹まこと 第1夜」

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この番組のまとめ

真面目なサラリーマン家庭に生まれた高田少年。 当時 高田少年が救いを求めたのは家に来たばかりのテレビでした。 大体 アメリカテレビ映画。 アメリカのテレビドラマを見ては翌朝 学校でものまねを披露していました。 そんな高田少年が初めて夢中になった歌もアメリカンポップス。 俺が5歳か6歳の時に ニワトリ抱えて写ってる写真があるんだから。 当時はうちで ニワトリなんか飼ってるから。 卵もそうだしそのニワトリの抱え方が俺 メッチャクチャうまいんだよ。

でもね 俺もね 「月光仮面」ホンダドリームのバイクに乗ってね大瀬康一が来るのよ。 ♪「ハリマオ ハリマオ ぼくらの」♪「ハリマオ」で 「月光仮面」の話なんだけど。 当時 若者たちの間にはボタンダウンシャツ コットンパンツ コインローファーのアイビーファンションが大流行していました。 俺が 高1の時に「平凡パンチ」という本が出てVANというところからボタンダウンで出て。 Listen to the rhythm…どうのこうのって言うんだよ。

2年連続で大学受験に失敗した高田はデザインの専門学校に 入学。 そこの人と一緒にそれが六本木だったんで面白い劇団があるっていって見に行ったのが自由劇場だったの。 うわ~ こんなすごい芝居があるんだと思って当時 高田のほか笹野高史柄本 明 ベンガルイッセー尾形ら野心あふれる若者たちが集まっていました。 まあ 何か 苦しいあれでねどうせ劇団なんか行っても大竹もまた 未来への希望もないアルバイト生活から劇団に入る事になります。

劇団時代?まあ劇団時代も含めて その前後に7人で住んでて。 貧乏生活の思い出に流れているのは当時 大ヒットした映画の主題歌です。 苦しい役者生活を諦め宝石会社に就職しサラリーマンとなります。 結局 もう 女房と暮らしてたから生きなくちゃいけないっていうんで宝石関係の…俺 デザインも やってたし昔 学校も行ってたしやるようになってトキモトという会社に行ってデザインやり始めたの。 ジュエリーデザイナーとして 「新進気鋭の新人デザイナー 現れる」なんて専門雑誌よ?それにね 出たりなんかしたのよ。

女の人を渡り歩き いわゆるヒモ生活を送っていた 20代後半何となく 役者を続けていた大竹に決定的な転機が訪れます。 この当時はね「八甲田山」っていうね…。 「八甲田山 死の彷徨」。 実際に 真冬の八甲田山でロケを敢行し当時 日本映画史上 最も過酷なロケとして有名になった映画です。 役者として 全く売れなかった仲間3人で コントユニットを結成。 俺たちは いつも 一丸となって生きてきたじゃないか!あの 冬の八甲田山の遠足を思い出せ!おめでとうございます!心が ざわつきました。