♪~昭和の初め 長引く不況の中2人が創始した 大本教は若き日 王仁三郎が神と対話した洞窟です。 中島さんは北海道大学准教授で宗教や ナショナリズムの視点から日本の近代史を見つめておられます。 これは 現代にとってもとても重要で今 貧困問題とか格差の問題というのが あると思いますが京都府 綾部と亀岡に本部を置く宗教法人 大本。 全人類の救済と世界の平和を祈り大本教を開いた開祖の遺徳をしのぶ行事です。 東京では 明治政府が外国の軍事的脅威にさらされながら 西欧化を急ぎ富国強兵政策を推し進めていました。
その一方では日本が帝国議会を発足しそして 憲法が出来て新しい政治体制が始まる。 「生神金光大神 天地金乃神江戸時代末期には 民衆宗教が次々に生まれています。 とっても重要な 日本の近代史の裏側の歴史というかもう一つの日本の重要な精神史のある決定的な一瞬だったかもしれないですね。 そういう事も思想史の研究者としてはある程度 勉強はしたんですけども大学院の学生になった頃に非常に珍しい事例だと思ったわけですね。
近代化というのはもちろん民衆を解放するとか前進させるとかいう意味もありますが 他方から言うと資本主義にしろ 国家の制度にしろそれは 外から民衆の生活している世界へ押しかけてくるわけですから近代化を受け入れて向上していく希望を持つという側面と人々を抑圧するというのか苦しめるというそういう二面を持ってるわけですね。
宮司の上田正昭さんは歴史学者として出口なおと出口王仁三郎という2人が 対となっているのが大本の非常に重要な原点だと思いますが先生は このお二人の役割とそれから意味っていうのをどういうふうに見ていらっしゃいますか。
大正6年 王仁三郎は機関誌「神霊界」に「大正維新に就て」という論文を発表します。 王仁三郎が大正維新を叫んだ翌年 大正7年日本海の港町で 全国を揺るがす大事件が起きました。 ですから吉野作造が書いたものはなかなか 一般庶民の人は読まなかったと思いますが王仁三郎の言葉 あるいはなおの筆先っていうのがやっぱりその中で苦しんでいる一般の大衆のところの言葉に寄り添った。 世界の根本的変革を主張する王仁三郎はスサノオを 自分に懸かる神であるとしていました。
僕は 大正デモクラシーの基底部には底流には 大本教的な…さっき 中島さんが言ったのだと生命主義とかそういう底流としては大本教と大正デモクラシーがむしろ つながっていたというふうに考えた方がいいと思います。 その人たち国家主義者にとってはですね「一君万民」という発想はある変革の思想だったわけですね。 やはり あそこの社会を変えなければいけないっていうそういう変革思想が生まれてくるんだと思いますが大本の… 特に 王仁三郎の天皇を使った変革という問題意識が 恐らく芽生えてきた。
そして事件後 王仁三郎が力を注いだ もう一つの活動が国際共通語 エスペラントの普及でした。 人類同胞主義を主張する王仁三郎は 自ら エスペラントを学びそのためには まず国家が統合するというのは非常に難しいですからそれ以前にやれるような言語的な統合性っていうのを模索していたっていうのが当時の王仁三郎の心境だったんでしょうか。 奉天をたって3か月北西に向かう王仁三郎を有力軍閥 張作霖が危険視していました。 「人類愛善新聞」は王仁三郎がつくった組織日本が潰れるとなると世界も倶に潰れて終ふ」。
この写真は 事件の7年前王仁三郎の娘婿 日出麿が鳥取を訪れた時 古田さんの自宅前で撮られたものです。 事件当時結核を患っていた時治さんは血を吐きながら大本教の教典を隠したといいます。 王仁三郎は 2審で治安維持法違反は無罪不敬罪で懲役5年。 第二次大本事件と日本の敗戦を経て王仁三郎は 自らの信仰の本質がこれは 今までの解釈が間違っていたもので敗戦から3年昭和23年の事でした。