日本人は何を考えてきたのか「女たちは解放をめざす~平塚らいてうと市川房枝〜」

戻る
【スポンサーリンク】

この番組のまとめ

市川房枝は婦人参政権がなかった戦前から獲得運動を続けてきました。 平塚らいてうと 市川房枝。 第12回で取り上げますのが平塚らいてうと 市川房枝です。 私自身は そういう活動に関わっていたわけではないんですがしかし 自分自身が どのようにこれから生きていくかという事をさまざま 考えていく時にウーマンリブの言葉から獲得したものはすごく多かったと思うんです。 日本の女性解放運動はどのように始まったのか。

人間は 自然の中の本当に一部だっていうね女が出世していくとか 社会的な事に考えてしまうんですがらいてうは そうではなくてもっと 何か哲学ですしそれから 宇宙 宇宙観ですね。 そして彼女は アルプスの雪山に住むという鳥 ライチョウに心中未遂事件から 3年後今 女性は月である」。 らいてうの お孫さんを訪ねた2歳の時から 23年間祖母である らいてうと暮らした結局は出産 その中でああ 自分の好きな人と一緒の生活をする事でその結果の中で生まれてきた事だから それも受け入れるし。

母性を 女性の特徴として評価し母性を保護するためには社会改革が必要であるとしたのです。 それに対して 与謝野晶子がピシッと反論をしてるのは「あなたは子供は国家的なものだと言ってまるで 軍国主義者か 国家主義者みたいな事をおっしゃいますが子供は国家のものではないんだ」と。

こうした女性たちの声は やがて社会的な権利を求めようという婦人参政権運動につながっていきます。 その中心となったのが市川房枝です。 大正から 昭和にかけて婦人参政権の獲得運動に身をささげた 市川房枝。 市川房枝は平塚らいてうに後れる事 7年そのあとで 母親は私の頭をなでながら『お前のお父さんはかんしゃく持ちで無理ばかり言うから 何べん 里へ帰ろうと思ったかしれない。 教育熱心だった父のおかげで房枝は 愛知の師範学校へ入学。

留学していた兄の影響で婦人運動を勉強したいと考えたからです。 アメリカでは その前年に旅費を ためて全米各地の運動を見て回りました。 市川房枝は 運動をどのように進めていったのか。 ここは 房枝が戦後に建てた婦選会館資料庫には 当時の息吹を伝える新聞のスクラップが残されていた「やじのツブテを 紅い気炎で撃退」。 婦人参政権獲得運動は高揚期を迎えていました。 平塚らいてうと 市川房枝が一緒にやったり 離れたり。 平塚らいてうはもともと社会運動家よりも霊の人 言葉の人なので。

こっちが 統合型でねこっちが 分離型でね総合職女 一般職女みたいに分断しておいて「君たちね 彼女たちみたいになるんじゃないよ」と言って日本は 大陸への進出を本格化させます。 婦選獲得同盟の機関誌「婦選」は非国民に あたらないよう「女性展望」へと名前を変えました。

雑誌「日本婦人」は会員数 2,000万を誇った大日本婦人会の機関誌です。 市川房枝や 平塚らいてうの戦争への協力の痕跡というかあるいは 採用してもらえない。 らいてうさん母性を すごく強調なさったけど母性って 非常に いろんな意味で都合良く使われてあの時 らいてうさん「母性」という言葉でいろんなエッセーを戦争中 書いておられるんですがそれは 我が子かわいさだけの利己主義を乗り越えるものを「母性」と呼んでおられるんですよね。

昭和22年 市川房枝は参議院選挙に立候補しようとします。 危機感を抱いた 平塚らいてうは平和を求める女性たちの声を集めてアメリカ大統領特使に手渡します。 らいてうが 原案を書き公職追放中の市川房枝も関わって声明書が 完成しました。 3年後 参議院選挙に立候補し理想選挙を目指します。 戦後の 平塚らいてうと市川房枝は手を携えて平和運動に取り組みました。 2人が その後 生きた戦後その姿というのはそれから もちろん市川房枝さんは 政治家として更にそれを進めていきましたよね。