ETV特集「“戦闘配置”されず~肢体不自由児たちの学童疎開〜」

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この番組のまとめ

子供たちは 手や足が不自由な肢体不自由児の学校の児童でした。 肢体不自由児学校は厄介者か お荷物か」。 それは 子供たちを次世代の戦力として温存するその事は 肢体不自由児の学校に残されているフィルムが肢体不自由児たちは なぜ学童疎開から取り残されたのか。 東京 世田谷にある…日本で初めての肢体不自由児の学校として昭和7年に開校しました。 当時の光明学校校長松本保平さんは強い危機感を抱きました。 「同じ学校でありながら肢体不自由児学校は都の厄介者か お荷物か」。

ここから更に 疎開を巡る光明学校の困難が続いていきます。 戦時中の合宿生活を 周りから厳しく見られた 光明学校。 光明学校の開校は 花田さんにとって 待望の知らせでした。 開校当時の光明学校です。 戦時体制への突入は光明学校にも影を落とし始めます。 戦況が悪化し学校で 集団生活を始めていた光明学校の子供たちもある訓練に懸命に取り組むようになります。 当時 光明学校に通っていた…今では完治していますが 子供の頃は カリエスで足が不自由でした。

松本校長は お願い回りの僅かな休憩の時もお呼びが かかったらすぐに出かけられるよう巻脚絆を付けたまま寝ていました。 松本校長は 村長に光明の子供たちを受け入れてもらいたいと 懇願します。 結局 村長は松本校長の一途さにほだされてその頼みを聞き入れる事にしました。 こうして光明学校の子供たちの疎開に松本校長が 鉄道局に交渉に通い続ける事3日。 松本校長は 学校近くの陸軍の部隊長に 直訴しました。 空襲の3日後 松本校長は世田谷に駆けつけました。