伊福部昭の世界~「ゴジラ」を生んだ作曲家の軌跡〜

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この番組のまとめ

♪~「ゴジラ」の音楽を生んだ作曲家伊福部 昭。 少年時代から伊福部の音楽に魅せられ20年にわたってインタビューや 取材を続けた。 全部違っている所にいると 「自分たちは何者なんだ」という事をもう少年時代 伊福部先生の小学生の時ですけどものすごく強く意識したんだっておっしゃってました。 この問いかけは作曲家伊福部 昭の信念を形づくる 出発点となった。 そこで知った 当時最先端の音楽が伊福部の創作意欲に 火をつけた。

伊福部は 戦時科学研究員という仕事に就く事となった。 この節回しが非常にフリギアと似ているので伊福部先生も 非常にフリギア旋法を多用しているっていうのはそういった 日本人の感性とヨーロッパ人の感性にもうまくマッチできる というようなところからという理由がありますね。 フリギアのメロディで 伊福部はゴジラに襲われた日本人の悲しみをそれだけではなくて むしろ被爆者であり 被害者であり傷ついたものであり異形のものの悲しみであるという。

だぶっていたという事が特に 昭和20年代になって伊福部先生が 自覚的に追求するフリギア旋法による日本人の心の悲しみの結局それは やっぱりどうしてもエレジーみたいなものと結び付く形。 伊福部先生ご自身 自分の音楽をフリギア旋法で書く メロディアスなものは「泣き節」という言葉で表現なさっていた。 「一頭5~10万円のミンクを輸入して育て映画音楽と並んで戦後の伊福部が力を入れた2014年5月 この作品の復元上演に向けてのリハーサルが行われていた。

伊福部とのコラボレーション作品は日本のモダン・ダンスにおける一つの到達点となったのである。 伊福部が心血を注いだ舞踊音楽の世界は今 少しずつ明らかになろうとしている。 伊福部教授は 冒頭の「ジャン」という響きから 1つの和音を抽出した。 昭和30年代 映画や舞踊音楽の仕事に追われながら伊福部は アジアの作曲家としてのアイデンティティーを模索していた。 2つをただ 継ぎ合わせるのではなく真に 東洋の感性に根ざした音楽を作らなければならないと伊福部は 感じていた。

日本の祭り囃子から スタートした伊福部の音楽はアジア全体を巻き込む 熱狂的な祭りへと広がったのである。 評論家とか 音楽ファンとか演奏家ってのは梅が咲けば 梅がいいと言い桜が咲けば 桜がいいと言い気のいい暮らしをできる人たちだけれども作曲家というものがそうなってしまってはもう どうしようもないと。 教育者として多忙な日々を送りながら家で 一人 考えにふける事も多かった伊福部。 晩年の伊福部が座右の銘とした言葉がある。 箏曲は 晩年の伊福部にとって最も重要な創作ジャンルとなった。