Eテレセレクションお願い!編集長▽ETV特集 神聖喜劇ふたたび~大西巨人の闘い

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この番組のまとめ

♪~太平洋戦争中長崎県対馬の砲台で人は何をなしてもよく何をなさなくてもよい」。 「神聖喜劇」には大西の軍隊での具体的な体験や3か月の教育訓練期間中軍隊内部の様々な不条理と闘いながら東堂は一人の人間として成長していく。 大西が「神聖喜劇」を書き始めたのは太平洋戦争が終わって10年後の 昭和30年。 時間が 二十何年もかかってしまったのはね言いかえればね…学業の成績は抜群で小中学を人より早く卒業し旧制高校を経て 九州帝国大学の政治学科に入学する。 今年3月大西は対馬へと向かった。

「今日 お前らは 小銃各部の名称を教育されたな。 「大前田は 足早に銃架へ行き歩兵銃一丁を手にして私の前に戻った。 「東堂は 班長殿の話を全部 聞きました。 銃の取り扱い方 手入れ法をよく勉強しておけ』班長殿は そう言われました。 東堂太郎が 軍隊で挑んだ闘いは大西巨人が挑んだものでもあった。 共通するルールを定めた「陸軍礼式令」「軍隊内務令」など数え切れない決まり事があった。 「被服手入保存要領」では男性のいちもつのしまい方「太閤秀吉の家来に有名な槍の達人が数名おったな。

そこを 他の班の班長仁多軍曹から 呼び止められる。 「もしも 上級者が下級者の『知りません』を容認するならば」。 「下級者にたいする 上級者の知らしめなかった責任が言いかえれば それは…」。 僕は 「神聖喜劇」を読み表現という手段で「神聖喜劇」の中で大西さんが おっしゃった…。 ちょっと言ったら…「神聖喜劇」の世界にひかれ10年の歳月をかけて漫画にしたプロデューサーがいる。 班長の大前田文七である。 当初 漫画家は 大前田を単純な悪役に仕立てようとしていた。

「この戦争に死すべき」と覚悟を決めていた東堂太郎。 この未知の魅力的要塞重砲に精通する事この未経験の男性的火砲操作に習熟する事を試みるであろう。 そのころは 「二番砲手は野砲の花」という話があって…同じ高浜演習砲台で大演習会が行われた。 教育訓練も あと2日となった4月22日大前田は 無断で任務を離れ愛人と密会する。 「『ただ私一人だけが 偶然ながら大前田班長を見送っている』と…そういう大前田文七をただ私 東堂太郎だけが煙雨のひだを通してかりそめながら 見送っていた。

僕が読み取った 「神聖喜劇」の最も大きな主題は生命の肯定じゃないかなと思うんですよね。 その後 上京した大西は 昭和30年「神聖喜劇」の執筆を始める。 しかし 「神聖喜劇」は雑誌に掲載されたもののすると その間はそればっかり?しかし大西は一つ一つの文章に こだわり執筆は 遅々として進まなかった。 本人も がんを患い胃の大半を摘出するなど「神聖喜劇」最終章 一人の人物が重要な役割を担う事になる。