徹子の部屋

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黒柳徹子:明日は終戦記念日でございます。 今日のお客様は、東京大空襲で、このような家族をほとんどお亡くしになって、戦災孤児におなりになった方でいらっしゃいます。 第1回目の時に、ちょっと、戦災孤児におなりになった事を伺ってたんですけど、詳しく伺ってなかったので、今日は、明日が終戦記念日という事もありまして、いろいろ戦争中の事を伺います。 海老名香葉子さん、今日のお客様です。 海老名香葉子:どうぞ、よろしくお願いいたします。

海:大昔のスナップ写真ですね。 とっても可愛いお着物をお召しになった写真なんかもありまして。 海:はい、七五三の時は、まだ戦争前ですからね。 この方、お母様?キレイなお母様ですよね、本当にね。 しかも、お母様の、香葉子さんのお母様の時代って、こういう格好してらしたんですね、頭やなんかも。 戦争が終わる前の年に学童疎開。 海:ええ、縁故疎開。 集団疎開と縁故疎開。 縁故疎開で沼津へ。 黒:学校で、ある時、なんか、東京の深川で大空襲があったって…?海:東京大空襲ですよね。

海:それで、ひと晩、一緒に抱き合って泣きまして、明くる日になりましたら、「2人でお世話になるのは悪いから、東京へ帰る」って。 海:ええ、再疎開が、沼津から…。 それが、2か月後、「悪いけど、東京のおばさんの家へ行ってちょうだい」って、おばさんに言われまして。 ですから、「おばさん、東京は今、恐ろしいとこだって、みんなが言ってるけど」って言ったら、土地の処分だとか、いろいろ処分しなくちゃならない事がいっぱい出てきちゃって…。 私の兄は、どこ行ったか、行方不明なんです。 で、1人で石川県から東京へ。

黒:小学校5年生ぐらいの子が、そうやって生きていかなきゃならない時代だったんでしょうね。 神田の今川橋の辺りにいるよっていう事を、黒:その、沼津に会いにきてくれたお兄さん。 長谷川伸先生とか、亡くなられた團十郎さんのお父さんの海老蔵さん、ああいう方たちが、のべつ来て、うちで、父の仕事ぶりを見ているんです。 海:そういう先生方のお名前が、あの…、立て看板とか、石段が2段ありまして、そこに書いてあったんで、それ、目に入ってたの。 それで、たまたま、神田で行った時に、金馬師匠のお名前があったんで、お訪ねしたの。