徹子の部屋

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この番組のまとめ

三善英史:♪~「恋はいつの日も」♪~「捧げるものだから」黒柳徹子:さあ、今日のお客様は17年ぶりのご出演ですけども。 三善英史さん、歌や舞台で駆け回っていらっしゃいます。 あれがもう、一番最初から鮮烈だったんですってね。 黒:それから、随分、仕事を、しばらくなさってから、あなた、仕事がね、減ったとか、歌がヒットしない時に、こういう生活があるんだって。

そういう芸者さんでいらっしゃって、そのお母様の、母の事を歌った、『円山・花町・母の町』というのが、大ヒットして。 三:新曲発表会でも、三味線弾かされたり。 ただ、この曲を、最初、いただいた時、なんか、すごいプライベートな感じがして。 でも、最初のアルバムの中の1曲という事でレコーディングするから…。 でも、レコーディングした時も、スタジオから出てきたら、ディレクターとかミキサーの方とか、皆さんが泣いてらしたんです。

ただ、ちょっとショックだったのは、湯河原に別荘持ってましてね。 でも、お母様、キレイだったから、あなたも、ちょっと、自慢のね、お母様ではあったと思いますけども。 まあ、そういう意味では、家庭の事情が複雑だったんで、小さい頃、結構ね、近所の子にいじめられたり…。 あと、東京から行きましたんで、その当時…、今は、日本中どこ行っても、着るものとか変わらないじゃないですか。 三:東京で僕たちが、普段、着てた洋服と…。 お母様は安心なすってた…。

黒:さて、そのお母様でいらっしゃるんですけど、芸者さんでいらっしゃるがために、私たち、トウモロコシやなんか、こんな事やって、ワンワンって食べたり、ハンバーグでもサンドイッチでも、こうやって、ワンワンって食べるんだけど、そういう事がないんですって?三:出来ないんですね。 なんでも、召し上がりものが、そういう風に、トウモロコシでも、こういう風に食べないで、1つ1つ、こうやって…。 サンドイッチも、全部、フォークやナイフで切るような…。

三:もう、円山町に住んでた時から、ずっと電話番号忘れて、いとこのとこへ電話かけて、あそこの電話は何番だっただろうかとか聞き始めて、その頃から、きっと、進んでたんでしょうね。 なんていうんですかね、ゆっくり、進行…、進行はゆっくりですけど、その時に、初めて、なんか、アルツハイマーとかなんとかという言葉を、ちらっと聞いたんですけど、初めて聞く言葉なんで、もう、それっきり、別に、そんな気にもしないで。

でも、お母様のああいう、日本髪結った写真なんか、ご覧になると、どんな風?三:そうですね、キレイだなって…。 でも、しまいには、だんだん、お母様のオムツを替えたりとかって、そういう事になったんだけど、割と平気で出来るようになったんですって?三:ほとんど、最初から抵抗なかったですね。 黒:お母様もあなたにイヤだっておっしゃらなかったの?三:でも、最初のうちは、認知症が進む前は、やっぱり母も女性ですので、どこまでしてあげていいかって。