村さんは 阪神・淡路大震災ででも 私たちは当事者じゃないから冷静に 考える事ができるしでも 先へ進むために元どおりにするにはばく大な費用と労力そして 時間がかかります。 東日本大震災からの復興。 1995年当時の日本と今の2011年の日本というのは新しい東日本大震災に向き合う時に何かこう 全く その…新しい一歩というか新しい日本人の一歩。
自分たちが とんでもないところに立っているという実は 地震が起きて変わってしまったんじゃなくて地震が起きる前にあったいろんな問題高齢化とか過疎とかいびつな産業構造とか経済的な停滞とか 赤字国債とかそういう 私たちが抱えてた問題というのが そのまんまより浮き彫りになった という事を認識する事だと思います。 例えば 具体的な話 申しますととにかく それでも原子力発電を推進していくその政策に変わりはないんだ という事を公言なさっているわけですけれども国民感情として私たちは それは嫌なんだと。
大原地区の125世帯のうち指定されたのは 51世帯でした。 やはり 隣で指定されて指定してない という事になると国により特定避難勧奨地点に指定され支援を受けられる家と受けられない家がある。 鉄道も分断 道路も分断されてもう本当に 東北の過疎地にあるのは 放射能だけだ。 普通扇風機の羽根って5枚でしょ。 政治は菅総理の退陣を巡って混乱し復興基本法の施行まで3か月も要しました。
産業界も いまだに とにかく電力不足だから 原発動かせと。 村さんが暮らす大阪でも関西電力は いち早く原発推進を表明していました。 被災地は 理性で 物事がなかなか動かない難しさは産業 あるいは経済活動を理由に原発を動かす事に賛成するというのはこれは もう言語道断だと思います。 その言語道断な事を平気で求める日本人に対してはその責任は理性が問われているのは原子力利用だけではありません。 津波のあと 大沢の人々は組合をつくって高台に敷地を造成し集団で移転しました。
大沢では 明治と昭和に繰り返し 家が流された低地が海岸危険区域とされました。 三陸を「津波常襲地」と呼び調査に生涯をささげた民俗学者 山口弥一郎です。 山口が昭和の津波の2年後に始めた三陸地方の津波に関する調査ノートになります。 山口は 津波に襲われたあとの大沢を訪れ実地調査をしています。 山口は 津波の浸水地域に仮の家が次々に建てられるのを見てそこに住む事が当たり前となりはしまいかと心配していました。 昭和の津波の1年後大沢の写真です。
けれども 元に戻るというのが廃虚という言い方は悪いけれども「東北学」を創始した民俗学者の赤坂さん。 赤坂さんは 震災直後から被災地を歩き住民との対話を重ねてきました。 その結果 被災地の現状に照らし元の姿に戻す事だけが復興ではないと赤坂さんが それを強く感じた場所の一つが東松島市の野蒜地区でした。 赤坂さんは 復興構想会議で野蒜を紹介しました。
だとしたら その 広大なエリアがありますから恐らく 50年後に 8,000万人の日本列島が生まれるというのはいやおうなしに自然の懐に入っていた動きが撤退に向かわざるをえないわけですね。 全くの夢物語ではなくて日本の自然って復元力が やっぱり強いすごく強いな と思いますし。